メシの種なり
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009-欧米は「契約」の社会、日本は「話し合い」の社会

■海外と取引のある会社に勤めている人なら、英文の契約書に接する機会が必ず一度や二度はあるものである。私はこういう契約書を、数多く日本語に翻訳してきた経験があるが、これがなかなか難しい。日本の会社同士、個人の間でも商取引には契約書はつきものだが、通常、日本語の契約書は、いたって簡単なもので、文字がほんの数行しか書かれていないものもけっこう多い。

■しかし、英文の契約書となると、極小文字でぎっしりと何ページにもわたって書かれている。欧米では契約書(contract, agreement)と名のつくものなら、大抵、10ページやそこらになるのが当たり前で、日本人には「どうしてそんな細かいことまで」と思われるようなことが、細部にわたって書かれるのである。そこに書かれた内容があまりにも「がんじがらめ」になっているので「こんなことに縛られたのでは、全く、仕事にならない」などと思ってしまう。

■日本で契約書を取り交わすということは「お互いに商取引をする関係になった」ということを確認するためにやることで、取引条件を細部にわたって明記し、これに違背しないようにするということは「必要ない」と思われていた。取引条件など、時と場合により、そのときそのときの状況によって、いくらでも変わるものだと、大抵の日本人なら思っている。契約が絶対なのだと思っている日本人など、ほとんどいないと思っても間違いではない。

■しかし、西洋では契約とは「神(唯一の神、絶対神)との契約に準ずること」なので、これを破れば、必ずそれに対して償いをしなければならない。シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」に出てくるユダヤ人の金貸しシャイロック(Shylock)が契約書を楯に取って、相手の肉を切り取る権利を主張するが、裁判所の判決では、肉は切り取っても良いが、血を流してよいということは契約書に書いてないので「地を流さずに肉を切り取るべきだ」というストーリーである。シャイロックの世界のように、日本でも、英文の契約書のごとく、こまごまと細部にわたって条件を明示するのは、金融業界の契約書ぐらいかもしれない。しょせんは人間同士の信頼関係が薄い、最もハイリスクな世界では、契約書に「これでもかこれでもか」と細かい条件を書き込まなければならないのだろう。しかしこれからは、日本人が外国と取引するときは、特にこのことに留意してやらなければ、必ずや、大やけどをすると肝に銘じることが肝要なのである。しかも日本人の書く変な英語で契約書を作ってはいけない。必ず、専門の弁護士(できれば英米の)の手になるものでないと大損することになる。

■日本の世界では、たとえ契約書が交わされても、誰もそれを読まないし(特に現場の人間は)、たとえ読んでも、その細部まで頭に入れて仕事をする人はほとんどいないであろう。契約書に何が書いてあろうが、通常の商習慣の範囲内で仕事をすれば、誰にも文句など言われないのである。

■ 日本国の憲法でも、また、道路交通法でも、文字で書かれていることと、実際の運用は、別のことで、憲法第九条を読めば「軍隊は持てない」ということは誰にでも分かることである。しかし、これを「自衛隊」と呼ぶことにより「実質的な軍隊」を所有している。もっとも、2001年4月29日発刊の「痛快!憲法学」(小室直樹著、集英社インターナショナル)によると、第一次大戦後に結ばれた(多くの国によって)「不戦条約」と通称される「ケロッグ=ブリアン条約」の条文が日本の憲法第九条のお手本となったのだそうで、第九条の第一項がケロッグ=ブリアン条約のコピーであることを知れば、この第九条が放棄している「戦争」には「自衛戦争は含まれない」と解釈するのが当然で、この条約を作った当人、ケロッグ米国務長官が「自衛戦争は対象外です」と米上院で証言しているのだそうで、「国家がみずからの生存権までも否定したら、国家そのものの意味がなくなる」ので、「日本も自衛権を持っていると考えるべき」だと小室先生は言うのである。道路交通法の適用や運用についても、文字で書かれていることと、実際にこの法律が運用されていることとは、大きな差がある。スピード制限(最高スピードの上限)が表示されていても、10キロオーバーまでは黙認されていたり、自転車も「歩道上を走ってもいい」と表示されていないところでは「走行禁止」なのに、歩道を自転車が走っていても、警察官は、これを取り締まらない。それどころか、警察官自身が、おおっぴらに自転車で歩道を走っている。走行許可の表示のない歩道上では、自転車の走行はいけないと道路交通法に書いてあるのに、皆、無視している。法律があっても、それなもの無きがごとくに、皆、振舞っている。車道を走ると危ないので、歩道で自転車に乗るのは当たり前だと思っている。たいていの人は、自転車の歩道上走行を違法だと思ってはいない。私が「自転車は歩道上を走ってはいけないのだ」と言うと、誰でも「そんなことはない」と言う。

■山本七平氏の著書「資本主義の精神」にこういう話が載っている。あるフランス人神父が日本にやってきて、ある機関に勤務することになったが、当然、フランス式にやる。人を雇う場合は、あくまでも契約である。相手によって、5年契約もあれば、3年契約もある。そして「無契約」とは、実は、「即座にクビにできること」なのだと。いわば「その人間の地位を保障しているのは契約だけであり、無契約とは何も保障しない」いうことだと。したがって、無契約状態で働いている者は「当然にそのことを知っているはずだ」というのが、このフランス人神父の常識であるのだと七平氏は言う。

■だが「この常識は日本では通用しない」というわけである。日本人にとっては、そこで働くということ自体が「話し合い」の結果であり、その「話し合い」の結果の消滅には、消滅に関する「話し合い」があるはずであって、「無契約だから今日解雇する」と言えば、そのような一方的な処置には応じられないということになると七平氏は言う。

■「彼ら(フランス人たち)にとっては『一方的』を排して自己の位置を保障してくれるものは契約だけであり、無契約を決めていると言うことは、とりもなおさず一方的を承認していることなのである」と。だが「この論理は日本では通用しない」のだと。日本のような「話し合い絶対」の社会は、「一方的」がすでに罪なのである。また「五年契約」とか「三年契約」という場合は、フランス人たちにとっては「契約の終了とともに両者の権利義務は一切消滅する。その契約を承認したことは、その消滅を承認したこと」なのであると。したがって、期間満了とともに、全ての関係が『自動的に消滅する』ことは、この神父にとっては当然なのだが、日本ではこれが通用しない。「日本での『五年契約』『三年契約』と言う意味は、五年目、三年目に、また『話し合い』をしますということなのである」と山本七平氏は言われるのだ。

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