ハワイ大学を卒業した私は、スポンサー(身元引き受け人)のお陰で、希望通りニューヨークの広告代理店、ウエスト・ウィアー・アンド・バーテル社(WW&B)に入社した。昭和四十二年九月、中旬のことである。
これで、あこがれのマディソン・アベニュー(街)の住人、グレイ・フラネル・スーツ(灰色のフラノの背広)の広告マンの仲間入りをはたしたことになる。マディソン街は広告代理店が多く集まっていることで有名で、広告代理店業の代名詞にもなっている。灰色のフラノの背広は広告マンの代名詞である。

広告業界は実力の世界で、高卒だろうが、大卒だろうが、大学院卒だろうが、給料や地位には関係がない。だから未経験の新人は給料も安いし、昇給は自分でかちとらなければならない。最初はトレイニーだから年俸五千二百ドル(週給にすると百ドル)が初任給だ。この金額は、十九歳や二十歳の秘書たちよりも週に十ドルか二十ドルは少ない。トレイニーとは「訓練を受ける人」という意味だから、いろいろな部門で訓練を受けることになる。
ニューヨークは久し振りの大都会だ。八月仲旬にケネディー空港に到着した。タクシーに乗り、市の中心地にある鉄板焼きの店「紅花」へ行く。青木ひろみつ君(オーナ青木家の三男・ロッキーの弟)に会い、当分彼のアパートへ居候をきめこむためである。夕方の六時過ぎだからまだ陽は沈んでいない。
ポケットには五十ドル位しかない。タクシー代をボラレないように、運転手には「ニューヨークは二年前と変らないな」などと話をしながら最短距離を歩らせたのだから、なかなかの腕といっていい。
ハワイは素晴らしい土地だが、東京、横浜という大都会に慣れ親しんだ私の目には、久し振りの大都会ニューヨークは、まったく新鮮に映った。はじめてのニューヨークは、まるで映画の中のシーンである。超高層ビルの林立するマンハッタンの町並は、すべての分野で世界の最先端をいく「最新感覚」のかたまりといった印象であった。
今の東京と比較すれば、少し広めの新宿西口という感じだが、十七、八年前のニューヨークは、それこそ東京と較べると「月とスッポン」であった。すべてが東京より優れていたと言っても過言ではない。私の専門のマーケティングのメッカも、ニューヨークであった。私にとっては第二の故郷ともいうべき場所である。

WW&B社に入社してからは、毎日が楽しく、すべてが新鮮だった。私のまわりには、目から鼻へ抜けるような優秀な人たちが沢山いた。彼等を見ていると、武者振いはしても、正直言って、自信のほうは下降線をたどっていった。いつになったら、彼等のように広告プランやプレゼンテイションが書けるようになり、またプレゼンティションを自分で出来るようになるのかと思うと、気が遠くなりそうだった。
WW&B社に入社した時は二十五歳だった。私と同年齢でも、すでにAE(Account Executiveの略。スポンサー担当の営業で、一地位的には課長に相当する)になっていて、私よりも二倍、三倍の月給を取っている優秀な連中もいたし、三十代し、四十代で副社長の地位にあり、年俸三万ドル、四万ドルも稼いでいる人たちがまわりに結構いたから、いやがうえにも闘志がわく。
WW&B社は六番街(Avenue of Americaが正式名だが、通称6th Avenueと呼ばれている)と五十丁目の通りの角にあるタイム・ライフ・ビルの十五階と十六階にあった。総売り上げは五千万ドルぐらいの中堅どころの広告代理店であった。
営業、媒体、調査、総務、役員室は十六階にあり、他の部門は十五階にあった。会長はコピー・ライター出身のウォールター・ウイアー氏で、デュレイニースミス氏が筆頭副社長で営業担当、ルー・エイモス氏が上級副社長で総務・財務担当だった。特にスミス氏には仕事の上で大きな影響を受けたといえるだろう。
デュレイニー・スミス氏は大変優秀なマーケティング・マンであった。プレゼンティションを書かせると、すばらしい能力を発揮する私の上司、アカウント・スーパーバイザーのボップ・クライアーのポスだから、私にはボスのボスということになる。
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