最初の四、五カ月はトレイニーだから、四つの部門を順次経験することになった。各部門を一カ月ずつ回わり、トレーニングを受ける。
最初はプロダクション部からだ。この部門は、プリント広告用のプレート(印刷に必要な銅版など)を製作したり、それを各広告媒体に送る仕事が主だった。プリント広告とは新聞・雑誌の広告のことで、当時の新聞はもちろんのこと、雑誌も凸版印刷が主流であったから、広告原稿はプレートで搬入する。四色刷りなら、プレート四枚を各媒体に送るわけだから大変な作業である。
現在はほとんどオフセット印刷だから、アート・ワーク(写真やイラスト)とメカニカル(日本語では版下と呼ぶ)を搬入、専門的に言うなら、入稿すればよい。レター・プレス(凸版)の時代と較べると、今は楽である。

プロダクション部門の仕事は、時間との競争である。おまけに細部にわたる注意が必要となる。雑誌によってはプレートの規格が微妙に違うから、規格に合わないプレートを製作するといろいろな不都合が生じる。したがって、雑誌社の規格に精通していなければならない。次に頭が痛いのは、締め切りである。複数の雑誌に広告を出す場合は、それぞれ締め切り日が違うから、間に合うように入稿しなければならない。
この部門では、印刷・製版の知識を得ることが私の仕事だから、特に製版会社の見学に力を入れた。製版は熟練工の仕事で、色の調整はカナヅチとタガネで、銅版の細かい点々を拡大鏡で見ながら一つずつ潰していくのである。現在では美術印刷にしか使われない手法だが、これを見学するのは大変楽しかった。熟練工たちの平均年齢は六十七歳だといわれたことを記憶している。
次に回わされた部門はトラフィック部だった。トラフィックとは「交通」という意味で、トラフィック・カップといえば「交通課のお巡りさん」ということ。だから、この部門の仕事は、いわば「交通整理」で、広告が出来上がる行程のトラフィックをコントロールすることで、トラフィック・マンの仕事は大変重要だった。
しかし、重要な割りにはプロダクション・マンと同様に給料も地位も高くはない。AEになるにはトラフィックの経験は必須であったが、ここに留まる者は、どこへ行っても仕事はあるが、AEやリサーチ・マン、コピー・ライター、アート・ディレクター、プロデューサーたちのように、高い給料と副社長のような地位にはつけないのである。
トラフィックの仕事は、プロダクションもそうだが、時間に追われる毎日である。AEから最初にジョッブ・オーダーが回ってくる。雑誌の広告なら、まず、媒体名、掲載スケジュール、商品名、広告内容の概略等がジョッブ・オーダーに書かれている。それにもとづいて、広告の制作スケジュールを入稿日から逆算して設定する。
制作スケジュールが確定すると、終始AEと連絡を取り、コピー・ライター、アート・ディレクターの尻をたたきながら、最終的な版下、アート・ワークの制作をコントロールして、それをプロタクションに渡す。版下が最終的にOKとなるには、何度もプルーフ・リーダーの目を通す。プルーフ・リーダーとは文字校正をする人で、この人のサインがないと製版に回わせない。誤字・誤植はスポンサーに対しての責任上、犯すことのできないことだから、プルーフ・リーディングには時間がかかる。時間がかかるからといって、これをごまかして製版に回わし、あとで間違いや誤植が見付かると、即刻首である。
トラフィックには一カ月半ほどいた。ここの仕事は大変きつく、一瞬たりとも気が抜けない。そのかわり、広告代理店全体のしくみを知るにはうってつけのセクションだから、しっかり勉強した。コピー・ライターやアート・ディレクターたちの仕事振り、版下制作セクション、写真の撮影、イラストレーターの仕事、プルーフ・リーディング、アカウント・サービス(AEの仕事で、日本では営業と呼ぶ)の仕事振りなどを、詳細に観察することができた。
AEにとって、テラフィック・マンは重要な片腕で、大体、三つぐらいのアカウントを担当する。大きいアカウトンだと二つぐらいで精一杯。とにかく胃潰(アルサー)瘍にならない者がいないくらい、時間と競争がたえない仕事なのである。
三番目に回わされたセクションは、メディア(媒体)部だ。媒体の「買い」をする部門で、メディア・プランはすべてここで作られ、ここでは経験が物をいう。メディア(media)は複数形で、単数形はミーディアム(medium)、新聞も雑誌もテレビもラジオも、それぞれ単独ではミーディアムと呼ばれ、メディアと呼ぶ時は、これらのうち二つ以上を指す時である。
ここでの勉強は専門用語(媒体のパイイングに関する用語)の習得と、バイイソグ(買い)の効率に関する手法を学ぶことだった。日本の広告代理店はメディア・デパートメントの強化に力を入れている。アメリカには広告代理店の他に媒体の買いを専門にやっている会社があり、これをメディア・ハウスと呼んでいる。これは媒体を大量に買いつけて、ボリューム・ディスカウントをもらい、媒体の安売りをするのが仕事である。日本にはないビジネスの形態である。
メディア部門のトレーニングも一カ月で終わり、次はテレビ・ラジオ・コマーシャルのプロダクション部門に行く予定だったが、この部門はスキップして、アカウント・サービスへ配属されることになった。私の場合は、スポンサーのアーノルド・ベイカーズ社会長の要望により、アーノルド・ベイカーズ社を担当するアカウント・スーパーバイザーのアシスタント(Assistant Account Executive)に抜●されたのである。

アーノルド・ベイカーズ社に対する年間広告計画のプレゼソテイション作成の作業は、今でも強く印象に残っている。下準備はボッブ・クライアーと私でやるのだが、最終的にまとめる段階には、メディアのスチュー・カウフマン、リサーチのビル・スチュアート、プロデューサーのカール・リグロッドとデュレイニー・スミス、ボッブと私の合計六人で会議を行ない、私を除く全員が口角に泡をとばして議論をする。いろいろな意見が出揃った頃に、デュレイニーが全体の考えを大きな白い紙に、片端から、マーカーでまとめはじめる。書き上がるはしから、それを広い会議室の三方の壁に押しピンで貼りつける。
壁中に紙が貼りつけられると、再度、全員で内容を検討し、補う個所は補って、最後に、それらの順番をきめる。デュレイニーはそれらを自宅に持って帰り、手を入れて、翌朝それを我々に見せて、最終的に決定を下す。
それをボッブと私がレタリング専門のセクションへ持って行き、カラー・マーカーでレタリングされたものを撮影させ、スライドに仕上げる。スライドに番号をふって、プレゼンティションのリハーサルを行ない、準備が完了するのである。
広告代理業というのは、前述のようにいつも時間との競争である。だから、いつでも時間の余裕などない。プレゼンテイションも時間ぎりぎりでやるから、内容的にはかならず不満が残る。
プレゼンテイションは、大抵クライアント(日本ではスポンサーと呼ぶ)のトップ経営陣(会長、社長、広告担当副社長、マーケティング担当副社長など)に対して行なわれるので、緊張の瞬間となる。広告予算は予算項目の中でも大きなものだから、トップ・マネジメントの最大関心事である。我々の場合は、会長夫妻に対してプレゼンテイションを行なっていた。
プレゼンテイションで失敗すると、代理店はお払い箱となる。米国では「どんなに優秀な代理店でも十年たったら首にしろ」という不文律があったぐらいだから、数年ごとに代理店を変えるクライアントが多く、十年以上も代理店を変えないクライアントは大変少ない。
したがって、プレゼンテイションをする時は舞台に上った役者のごとく、一世一代の名演技をしなければならない。デュレイニーのプレゼンテイションはいつも見事なもので、私にはとても出来ないと思い、例の劣等感が鎌首をもたげてくるのである。