私はあまり有名人を意識して見たり、接したりしないほうだが、大リーグのボストン・レッド・ソックスのカール・ヤストレムスキー選手とTVコマーシャルのビデオ撮りをした時のことは、今でも忘れられない。
ヤストレムスキー選手は「ヤズ」とみんなに呼ばれ、昭和四十二年にチームがリーグ優勝をはたした時、三冠王のタイトルを取った人気最高の選手である。オール・アメリカン・タイプのイーメジを持つ好人物だった。大変に忙がしい男で、オフ・シーズン中も慈善的な仕事で全国を飛び回っていた。
アーノルド・ベイカーズは彼の名前をつけた商品「ビッグ・ヤズ」を売り出すため、彼と年間契約を結び、TVコマーシャルを何本か作ることになった。成長盛りの子供たちを対象にした高タンパク質の食パンである。
当時のアメリカでは、コマーシャルの撮影はフィルム撮影とビデオ撮影の二種類があり、ビデオ撮影の方が安上りであった。しかし、フィルムで撮影しようが、ビデオ撮りをしようが、日本とは違い、全部ビデオのテープにダビングして放映していた。すべてのコマーシャルはテープにダビングされ、番組の中にインターロックするのだから、ビデオ・テープで入稿されるものは、局側も手間がはぶけるので大歓迎だった。
日本では今でもそうだが、フィルムのまま放映されるので、ビデオ撮影でコマーシャルを作ることができない。ビデオでコマーシャルを作ればかなり安価に作れるのだが。
ビデオ撮影でコマーシャルを作るのはかなりポピュラーだったから、スタジオはあっちこっちにあった。カメラはいつも三台使用していた。当時は編集技術はまだ未熟だったので、映像と音を同時に収録する方法がとられていた。したがって、セリフをとちったりすると、何度も撮り直しをする。
カール・ヤストレムスキーとは合計三度ビデオ撮りした。冗談がうまく、非常に明るい男だったので、クルーの連中とも息があった。彼はケネデイ空港からヘリコプターでパンナム・ビルの屋上までやってきて、そこからタクシーでスタジオへ来るというような過密スケジュールだから、ビデオ撮りも時間との競争だった。だから撮影の方もうまくいかないと時間ばかりかかって、あとのスケジュール調整が大変になる。
彼はボストン生まれのポーランド系で、ボストンの下町特有の訛りでしゃべる。訛りのためMILK(ミルク)が正しく発音できない。どうしてもMULK(マルク)という発音になる。ミルク・プロティーン(牛乳蛋白)という言葉は、このコマーシャルには不可欠なコピーだから、正しく[milk]と発音されないと困る。この音のために、最初の一本は十三回も撮り直さなければならなかった。
アメリカ人の発音は地域によってかなり訛りの差がある。これを詳しく書くほどの知識もないし、また長くもなるので、ここではニューヨークの下町特有の訛りを紹介するにとどめよう。
一つは〔●〕と発音される母音でバード(bird)などにでてくる音である。これがニューヨークの下町では〔●〕という母音にとってかわり、「ボイド」という風に発音される。ガールは「ゴイル」となり、ファーストも「フォイスト」となる。
もう一つは〔th〕の発音(無声音は発音記号で書くと〔●〕、有声音は〔●〕)で、この子音は〔t〕と〔d〕の音で代用される。「私は思う」(I think)は「アイ・ティンク」と発音され、「スリー」は「トリー」となる。だから、前出の母音〔●〕と〔th〕の音が組み合わさると、例えば、「三十三丁目の通りと三番街」のことを、「トイティー・トイド・アンド・トイド・アヴェニュー」などと発音するから、初めてニューヨークにくる人たちは、何がなんだかわからなくなる。
後述するが、米国では〔●〕の音が出せない人は〔t〕の音になるのが常識で、〔●〕の音は〔d〕と訛るから、「アイ・ティンク・ソウ」と言えば誰れでも理解してくれるし、「ディス・イズ・マイ・ファーダー」と言えば通じる。しかし、日本式発音で〔●〕をサ行、〔●〕をザ行で発音したのでは、さっぱり理解してもらえない。「think」を「シ(、)ンク」、「this」を「ジ(、)ス」、「father」を「ファーザ(、)ー」などと発音すると、まったく通じないのである。
日本語の方言は「発音の違い」よりも「言いまわしの違い」で区別されるものが多く、アメリカの場合は「発音の違い」が訛りとなる場合が多い。
「マイ・フェアー・レイディー」というミュージカルは日本でも有名なので、ここで詳しくストーリーを説明する必要はないと思うが、このミュージカルのモーチフは、「主人公のイライザの発音を矯正することによって、下層から上流社会のメンバーにする」ことにある。後述するが、英国では上流と下層の違いは発音の違いで区別される。急に金持になったからといって、発音を直すことは難しいから、上流階級の正メンバーになるには、二代や三代は時間がかかることになる。しかし、アメリカでは発音による階層の区別はない。