約二年半ほど勤めたMJ&A社もとうとう去ることになった。首になったのである。クライアントが代理店を首にすることを「九十日のノーティスを与える」というが、MJ&A社は首を宣告されると、直ちに人間の首切り作業に移る。私を含めて、十二、三人の首がとんだ。
私はビザの関係もあり、すぐに就職探しをしなければならなかった。ニューヨークの広告代理店では社長を首にしても、当分の間はオフィスを使わせてくれる。次の職探しに便宜を与えてくれるわけで、この期間は約一ヶ月間ある。
失業すると急に忙しくなる。オフィスには朝一時間も早めに出てきたりして、首になる前よりも忙しく働く(?)ことになる。早速、あっちこっちの知人やヘッド・ハンター(就職あっせんを専門にする会社)に電話を入れて、インタビューを受けるためにとびだしていく。
失業保険もこの時初めてもらった。あとにも先にもこの時が初めてで最後である。職安に行き、長い列のうしろに並んで、なんだかんだで二時間はかかる。週六十ドルの失業保険は家賃分ぐらいにしかならない。職安へ行くたび、失業という人生の悲哀をかみしめることになった。
二ヶ月ほど失業したあと、L・W・フロリック社に職がきまった。この会社は医薬品を専門にする広告代理店で、日本支社拡張要員として雇われたのだが、三ヶ月後には、この計画が御破算となり、再度失業する。
この時点では、ビザの関係で早急に日本系企業に就職して、E1というステイタス(日本企業に勤めるかぎり米国内で働いても良いというビザ)を取得しないと米国に滞在できない状態だった。そのためある人の紹介で日本のリサーチ会社のニューヨーク支店に入社することになった。
タイトルはプロジェクト・マネージャーで、日本企業から依頼されたリサーチのレポートを英文で書く仕事である。
毎日、夜遅くまで同僚の日本人たちと一緒に会社に残り、レポート書きをするのだが、若かったせいか、社長と衝突することも多く、同僚のO氏には「そうそうカリカリするな」とたしなめられ通しだった。
ここではジェトロ(日本貿易振興会)の仕事が多く、右から左へと書きとばしていた。だが金額の安い仕事でも、根が職人的なのか、雑に仕上がることができず、時間をかけすぎては社長におこられていた。
この会社には、アメリカ人やインド人もいたのだが、彼等は五時になると帰ってしまう。我々日本人は十時、十一時まで仕事をする。どうも日本の会社(ジェトロを含めて)では、日本人の社員は全員このように遅くまで仕事をしていて、外人たちのひんしゅくをかっていた。私自身も外人たちと同じように五時には帰ろうと思うのだが、他の日本人同僚たちが遅くまで働いているのに、私だけ早く帰るのは気がひけて、みんなと同じように遅くまでやることになってしまう。
当時、日系企業に働く外人たちに不評だったことがもう一つあった。日本人は自分たちだけでかたまり、食事は日本料理屋で、酒を飲むのも日本料理屋でというぐあい。おまけに遊ぶのも、日本人同士。マージャンやゴルフも日本人だけというのが多かった。これでは、のけ者にされたと外人たち(?)に思われても仕方ない。
この会社に働いている間にも、いろんな人に出会った。特に佐藤さんとは帰国後も親しく友人付き合いをしている。佐藤さんはハーバード大学院で宗教学修士号を取得した私よりも二歳年上で、当時すでに妻帯していた。彼は数ヶ月ニューヨークにいて東京の本社に送られ、二年後には独立して、現在何十人かの社員をかかえる身になっている。
ニューヨークの日本人社会では、元旦を日本倶楽部で祝う人が多かった。私も一度だけ、この新年会に出席し、当時国連大使をしておられた鶴岡さんの訓辞を聞き、大使の音頭によって万歳三唱を行うのだが、これがどういうわけだか、気恥ずかしい。今でも、この万歳三唱だけは苦手である。
新年祝賀式のあとはお屠蘇をいただいて、アパートに帰る。とにかく、この時は一睡もしていないので、お昼ごろにはかなり酔っぱらってしまっていた。大晦日の晩はアメリカ式パーティーに行って、夜八時ぐらいから夜明けまで「ハッピー・ニュー・イヤー!」と乾杯のし続けだから、日本酒が入ると急に酔いがまわってくる。
この年も明けて、秋になると再再度、首になり、フリーランスの仕事を始めることになる。帰国後半年前のことである。