私は完全にコミッション制だったので、私が取ってきたアポイントメント(我々はこれをリードと呼んでいた)をセールスマンがフォローして、売買が成立すると私に百ドルのコミッションが入る。セールスマンは一件につき五、六百ドルから千ドルぐらいのコミッションを稼ぐので、百ドルはかなり低いコミッションと言わなければならない。
ハワイは観光と軍の支出によって財政がなりたっている州だから、よそ者に対してあいそ(、、、)が悪い土地ではない。しかし、セールスマンはよそ者だと警戒される。白人でも、地元生まれの白人(ローカル・ハウリー)とメインランド・ハウリー(本土出身の白人)とでは待遇が全然違う。
日系人も同様で、本土(メインランド)出身の日系二世、三世は、コトンクと呼ばれ、地元の日系人には「なまいきだ」といって嫌われる。コトンクの呼び名のいわれにはいくつかあるようだが、私の聞いた話では「昔、本土の二世たちとハワイの二世たちがケンカをした時に、本土の二世たちは弱いので、一発なぐられるとコトンクとしずんでしまった」ため、それからそう呼ぶようになったという。
単純な偏見だが、その理由の一つには、言葉の問題がある。本土出身の二世たちの多くはカリフォルニア州に住んでいたから、英語は標準語である。コトンク側から見ると、ハワイの二世たちのしゃべる英語はピジン・イングリッシュと呼ばれるハワイ独特の訛りのある方言だから、ハワイの連中を「田舎っぺ」とさげすむ。ピジン・イングリッシュは辞書によると、「中国の通商英語―英語に中国語、ポルトガル語、マライ語などを混合したことば」と説明されている。
もう一つの理由は、ハワイの連中は昔、イガグリ頭に丸刈りした二世たちが多かったので、お釈迦様のような頭の格好だからブダ・ヘッドと呼び「坊主頭の田舎者」と蔑称していた。だから、コトンクとブダ・ヘッドは日本に来ていた軍属の間でも仲が悪かった。
ハワイの人口の三分の一くらいは日系人で、政治家、官僚、弁護士、医師、教育者などには日系人が多く、当時でもダン・イノウエ上院議員、スパーキー・マツナガ下院議員、パッツィー・ミンク下院議員らの日系国会議員がいて、日系人の力が非常に強い時代だった。
したがって、ハワイの日系人には「白人に頭をペコペコさげない」という気概を持っている人が多かった。そのため本土の日系人を「白人と同じ英語をしゃべり、白人の真似をして、白人におべっかを使う野郎」という意味で「ハウリー・アス・キッサー」(白人の尻にキッスする奴)とも呼んでいた。ハワイの日系二世には、百大隊や四四二連隊で勇名をはせた誇りがある。
ジョウディー・マルヤマはコトンクであった。コトンクがハワイで嫌われるということを身を持って体験した男だから、私にも早くピジン・イングリッシュを覚えろという。コトンクに間違えられたらセールスなどできないというわけだ。
ピジン・イングリッシュを覚えようとするのだが、頭の一角には変な訛りを覚えてはいけないという声が終始聞えてくるし、なかなかうまく覚えられない。仕方ないから、私は日本からの留学生だと説明し、コトンクではないことを納得してもらったが、日本人留学生の評判もかなり悪かったから、はたして良かったのか悪かったのか、今考えてみると多少疑問である。
授業が終わると、すぐにキャンバシングを始める。しかし、初めの頃は、あっちこち回るのだが、なかなかアポイントメントが取れない。たまに取れても、セールスマンが行くと不在だったりする。確実なリードにならないものが多い。そういうわけだから、文無しの日が続き、最初の二カ月間は毎日働くのだが、一銭の収入にもならなかった。
この二カ月は文無しだから、メシ代がない。これほど長い間空腹の日々が続いたのは、この時が初めで最後である。ジョウディーに前借りを頼んでも「お前には一銭も貸してやらない。貧乏がいやなら稼いでこい。しっかりしたアポイントメントを取ってこい」といい、「腹が減ったら、俺の家へ毎日でもよいからメシを食いに来い」という。
空腹に耐えられなくなると、多少プライドが傷ついても、文字通り背に腹は変えられない。何度も彼の家へ行って食事をごちそうになった。奥さんは、彼がGIとして日本に駐留していた間に結婚した日本女性で、よく面倒を見てもらった。今ではハワイで会うと、昔話に花が咲く。
ジョウディーは若い頃から苦労して、セールスマンの修業をしてきた男で、「飢えの中からセールスのコツを覚えなければ、一人前のセールスマンになれない」という信条の持ち主だった。私のほうも意地を張って「アメリカ人には負けないぞ」と思っていたから、歯をくいしばって頑張っていた。
三カ月目に入ってからは、月収三百ドルぐらい稼げるようになった。しかし、それまでには友人たちから一ドル、二ドルと借りていたから、月に三百ドルぐらいでは借金を返すと手元にはいくらも残らない。したがって、キャンバサーを始める前の状態にもどるのにそれから二、三カ月はそれまでどうりの貧乏を続けていた。