昭和四十一年の夏は二回目の夏休みで、サマー・スクール(夏期講座)に参加して、二科目、六単位を取得することにした。もちろんアルバイトもしなければならない。
前年の夏は、パン屋とホテルのバス・ボーイの二つの仕事をかけもちしていた。身体を酷使する仕事だったから、働いていない時間は寝るのが唯一の楽しみで、遊ぶ時間はあまりなかった。
夏休みになるまではジョウディー・マルヤマの所でキャンバサーをしていたが、彼の紹介で帰米二世のハイラム・スミダに会った。ジョウディーにすすめられて、ハイラムがセールス・マネジャーをしている会社で、アルミの屋根のセールスマンをすることになった。
ハイラムは私の母校(広島国泰寺高校、旧広島一中)の先輩だった。「だった」と過去形で書くのは、二年前ハワイに寄った時にはすでにガンで亡くなっていたからだ。ハイラムは十五、六年先輩だから旧制一中の卒業で、当時、四十歳ぐらいだった。
私はジョウディーの所でキャンバサーとしてもかなりの腕になっていたから、自信もついていた。私が百ドル稼ぐとセールスマンは五、六百ドルは稼ぐ。セールスマンの方が歩(ぶ)がいいのは明らかだし、リードも自分で取ってこれるわけだから、もう一本立ちする時期にきていた。
夏休みに入ると、すぐにディヴァーシファイド・インダストリー社のセールスマンになった。この会社には、ハイラムの弟で野球で有名な広島商業出身のロイ・スミダもハイラムの下でセールスマンをやっていた。私はこの二人からセールスの一から十までを習得したのである。
ハイラムは後輩の私を可愛がってくれ、弟のロイと二人でいろいろなセールス・テクニックを教えてくれた。ロイにはしょっちゅう酒をごちそうになったし、ハイラムと二人っきりで酒を飲む時は、旧広島一中の校歌を一緒に歌うのだった。このベテラン二人の指導で、私はセールスマンの第一歩を踏み出したのである。
自分でセールスをやり始めると、それまでの半年間、食うや食わずでマスターしたキャンバシングのノウハウが功を奏しはじめた。この時に初めてわかったことだが、実はセールスマンにとって最も苦手なのがキャンバシングなのである。キャンバシングとはバス・ボーイの仕事のようにきつい仕事で、格好いいのはウエイター、セールスではセールス・ピッチを行なうことで、ウエイターの経験をすると汚れ仕事のバス・ボーイはやれなくなるのと同じである。
キャンバシングにもいろいろな方法がある。広告をして、問い合わせがあるとセールスマンを派遣する方法もあるし、電話帳をめくって片っ端から電話をかけてセールスマン訪問のアポイントメントを取るテレフォン・キャンバシングもある。電話でのキャンバシングは日本でもよく行なわれている。もっとも確実なのが自分の足で行なうキャンバシングである。電話で取るアポイントメントはすっぽかされる場合も多いが、私が足で取ってくるものは確実なものが多い。これらはクオリファイド・リードと呼んでいた。
リードがなければ、セールス・コールができない。二十五人いたセールスマンもキャンバシングの下手なやつは成績が悪く、女房子供をかかえている者は大変である。食えなくなって脱落する。セールスマンがスランプに落ちこむ時は、大抵、キャンバシングのやり方に問題がある。半端なリードをつかむからである。
アメリカでは昔から、セールスマンは派手だと思われている。「金まわりのよい派手な職業」というのが通説となっている。日本のセールスマンにはサラリーマンというイメージが強いから、一匹オオカミの凄腕で金まわりがいい男(女)という印象は薄い。アメリカでは収入のいい職業だから、みんないい車に乗っている。キャデラックに乗っている者も多かった。
私はどうかというと、残念ながらホンダのバイクしか持っていない。五十CCのカブである。二輪キャデラックと私は呼んでいたが、バイクでアルミ屋根のセールスをしていたのは、あとにもさきにも私一人だけだった。このバイクの後ろにセールス・キット(商品のサンプル、小道具などの入ったビニール製のスーツケース)を積んで、アルコア社製のロック・シングル・アルミナム・ルーフを売りに行くのである。
しかし、みんないい車に乗っている中で、私だけ二輪キャデラックだから、少々恥ずかしい。「バイクしか持っていないのか」と思われるのも癪だから、訪問先の前に駐車しないで、三、四軒手前にいつも駐車していた。この時の屈辱のため、今まで一度も自動車の運転はしないできた。