最近の横浜は東京と変らなくなってしまった。伊勢崎町の通りも元町も、東京と共通のにおい(、、、)がするようになり、二十二、三年前まではあったあの独特な「外国っぽさ」がなくなってしまった。
私は昭和三十五年四月から三十九年十二月まで横浜に住んでいた。山下公園前のニュー・グランド・ホテルで一杯やると「港横浜シーサイド・イン」という雰囲気が楽しめたし、山の手のほうへ行くと童謡の「青い目の人形」とか「赤い靴」がかもし出す明治時代の非常に日本的な異国情緒もあった。また、本牧のPXのあたりに行くとまったくアメリカという雰囲気で、古い異国情緒とGIたちがふりまくアメリカ臭が混り合った一種独特なにおい(、、、)が、今では大変なつかしい。
横浜は私にとって英語との触れ合いにおいて原点のような場所で、漢字で横浜と書くよりも片仮名でヨコハマと書いたほうがぴったりくる町である。
昭和三十五年、私は青山学院大学英米文学科に入学した。高校時代に受験勉強そっちのけで英語音声学を狂ったように勉強していたお陰で、大学に入った時には、発音は完璧といってもよい程になっていた。一年生の時から第一回世界ロータリアン大会での通訳のアルバイトにありついたり、TIAF(東大、ICU、青学、外語大の四校間で競う英語演劇コンテスト)の出演メンバーとして唯一人、一年生から選ばれたりした。
ヨコハマには叔母が住んでいた関係で下宿するようになった。同じ下宿にいた福井県出身の横浜市大四年生のT氏に「いい所があるので連れていってやる」と誘われ、伊勢崎町にあった「コイノニア・コーナー」に行き始めたのが四月の終わり頃だった。
コイノニア・コーナーは、現在の松坂屋デパート(元の野沢屋デパート)の斜めはす向いの角(かど)のビル(現在大貫カメラと丸一証券のあるビル)の二階にあり、NCC(National Council of Churches in the United States)が運営するキリスト教のいわゆる「GIと日本人が楽しく語り会える憩の場」で、バーロー牧師が責任者たった。
バーロー先生は帰国後、博士号を取得され、プレスビティリアン派の短期大学の学部長、副学長をされたという。私はここにほとんど毎日のように行って、宣教師、米兵、他の日本人の仲間たちとワイワイ、ガヤガヤとやっていた。当時は親からの仕送りも少なく、無料(ただ)でコーヒーの飲めるコイノニア・コーナーは、まさに絶好の遊び場だったのである。
コイノニア・コーナーに行き始めると、英語を話す機会が持てるようになり、急激に会話力がつき、英語をしゃべり始めて二カ月もたつと、「お前、アメリカはどこの出身だ?中西部のどこかか、カリフォルニアだろう」と兵隊たちに言われるようになった。しゃべり始めてほんの二カ月でアメリカ人だと思われたのだから大変な進歩である。
このような私個人の体験から確信を持って言えることは、英語がうまくなりたいなら、まず発音をマスターすることである。アメリカ人に間違われるほど上手になる必要はないだろうが、相手の発音を聞いてわかり、こちらの発音もよく理解して(聞き取って)もらえる程度に上達するには、特別な能力とか、長い時間は必要でない。発音の専門家について学べば、三〜六カ月(週に二回のレッスンで)ぐらいで習得できる。
問題は先生で、外人(米・英・加・豪州人など英語を国語とする)なら誰でもいいというわけにはいかない。日本人に発音を教える方法を習得した人でなければならない。アメリカの大学院などで「第二外国語としての英語教授法」を専攻し、修士号を取ったような人でないと駄目。しかも、日本語が達者で、個々の母音・子音の発音方法を微に入り細をうがつように日本語で説明できないようでは、発音を教える資格はない。
発音を教える先生に必要なもう一つの資格は、イギリス語でもアメリカ語でも標準語(その国の教養人が話すことば)の発音ができることである。そうでないと、特定地域の方言の発音を教えることになる。外国語として英語を習うのに田舎の方言を覚えるわけにはいかないのが人情。だから先生も、標準語の発音を教えなければならない。
英語の世界(特に英語などでは)では、ミュージカル「マイ・フェアー・レイディー」の主人公イライザのように、発音によって階層の差が生じる。発音によって上流と下層の区別ができるのである。英語の国では標準語と方言の違いが最大なのは発音で、日本の場合はどちらかというと発音よりも言い回しの違いのほうが大きく、発音の違いによって身分の差などはでてこない。
小さい子供なら耳で聞くだけで音を真似できるかも知れないが、物真似プロの江戸家猫八ならいざ知らず、大抵の大人なら、イライザのように大変な苦労をする。発音の習得には良い先生につくことが肝腎。日本語で音の出し方を上手に説明できる音声学的トレーニングを受けた先生に教わるのが一番効果的だろう。
発音さえ覚えてしまえばあとは楽なもので、相手のことばも聞いて分り、相手もこちらの発音を聞いて分るようになるから、会話力は自然についてくる。
私は大学時代ずうっと横浜に住んでいたが、コイノニア・コーナーに関してはいろいろな思い出がある。
当時は、アメリカ人と較べると日本人もまだまだ貧乏な時代で、昭和三十五、六年といえば、大卒の初任給は一万二千円から一万五千円ぐらいで、昭和三十九年(東京オリンピックの年)に卒業した同級生たちでも、高校の英語の教師が初任給一万八千円だった。
横浜の関内の高級クラブでも三、四千円でビールが何本か飲めた時代で、屋台のラーメンが確か五十円。この時代にGIたちは一兵卒でも八十ドルから百ドルぐらい月給をもらっていたので(為替レートも一ドル三百六十円、ヤミでは四百円の頃だから)、かなりの月給取りだった。日本の会社の課長ぐらいの収入だったはずである。
彼等に連れられてよく一緒に酒を飲みに行った。バーロー先生には見付からないようにコイノニア・コーナーから兵隊たちと抜け出すわけで、伊勢崎町の裏通りのバーや中華街、本牧の外人バーにはよく出かけた。外人バーに行く時は、「お前はアメリカの二世だということにしろ。そうでないとホステスたちが場違いの日本人だということで嫌な顔をするから」と言うので、外人バーでは大抵二世ということで通していた。それでもひどく嫌な顔をされることが多かった。
横浜にはゼブラ・クラブというNCOクラブ(Non-commissioned Officers'Club)があった。兵・下士官たち専用の軍のクラブで、ここへもよく彼等に連れて行ってもらった。場所は南桟橋(アメリカ人たちはサウス・ピアと呼ぶ民間船用の大桟橋)現在の山下埠頭の近くにあり、シルク・センターの数軒隣りにあった。この近辺には有名なナイト・クラブ「ブルースカイ」もあったし、当時は大変恰好のいい地域であった。
当時、アメリカ軍のクラブでは酒にしろ食事にしろ、なんでも安かった。ビールが十五セント、スコッチ一杯が二十セントか二十五セント、日本円で九十円以下だった。五ドルもあれば二、三人が酔っぱらえるほど飲める。しかも、バンドも入っていて、エンターテイメント付きである。とにかくメチャクチャ安いのである。うらやましい限りだったのだ。
岩国クリスチャン・サービスメンズ・センター
大学二年生の春休みに、バーロー先生から一カ月間岩国へ行くアルバイトをいただいた。当時(昭和三十七年春)、バーロー先生はコイノニア・コーナーを閉塞して、横浜の仕事を岩国へ移す計画をしていた。
岩国には今でもアメリカ海兵隊の基地があるが、当時は飛行隊の他にも常時大勢の海兵隊員(マリン)がいた。地元の人たちはカミカゼ・マリンと呼ぶほどオートバイを乗り回す連中が多く、基地の近くの飲食街は大変活気があった。
基地のゲートから歩いて五、六分の所に、通称フォー・コーナーと呼ばれる交差点(四つ角の意味で住所は川下東方(かわしもひがしかた))があり、この交差点のすぐ手前にタクシー会社の古い車庫があって、そこを改築して、新たにイワクニ・サービスメンズ・センターを開設することになった。
このセンターもコイノニア・コーナー同様、兵隊たちの基地外での福祉を目的としたもので、従軍牧師たちの要請が強かったのだろう。この辺り一画はGIバーの密集地帯で、バー以外には兵隊たちの行く場所がなかったし、岩国駅近くの日本人の歓楽街で酒を飲むことは司令官によって禁止されており、常時SP(憲兵、海兵隊は海軍の一部門なので海軍の憲兵が取り締っていた。SPとはShore Patrolの略)が駅前のバーをパトロールしていた。そうした状態なので、家庭的な憩いの場を作ることにしたのである。
しかし、飲み屋街の近くにあるため、良家の子女と、兵隊たちが連れてくる飲み屋の女たちと区別するのが難しいというので、日本人女性はオフリミット、日本人の男性も兵隊同伴でなければ駄目ということになった。これには私も人種的偏見のような気がして、抵抗を感じたが、バーロー先生の目標はあくまでも飲み屋以外に行ける「真面目な場所」、白粉っ気のないセンターの設立にあったので、誰も異議を唱える者はいなかった。とにかく、日本女性シャッタウトに関しては終始厳格であった。
私の郷里は、岩国から汽車で三十分ぐらいしか離れていない広島県佐伯郡五日市町(現在は日本最大の町で人口約十万人、広島市の隣りにあり、当時の市内と宮島口との中間地点にある)なので、時々は実家に帰れるし、また仕事も面白そうなので、二つ返事で引き受けた。仕事の内容は、建築資材の盗難防止のための見張り役と工事現場の監督である。
バーロー先生と二人で岩国に行ったのだが、二、三日後には私一人を残して先生は横浜へ帰っていかれた。しかし、先生がいなくなっても、かわりに従軍牧師の海軍少佐が私のお目付け役になり、少佐との連絡を保ちながら、約一カ月間、旧車庫の二階にあった和室、かつては運転手たちが仮眠用に使用していた八畳の間に寝泊まりし、資材の見張り番をすることになった。
しかし、これは大変退屈な仕事で、おまけに、すぐ近くにはネオン輝く歓楽街があるわけだから、夜になると車庫の二階になどいられなくなる。
フォー・コーナーの近辺はいわゆる外人バーの密集地帯だ。夜になると急に活気をおびてくる。派手なネオンが兵隊たちを手まねきする。レストランやバーの名前も非常にアメリカ的で、日本人の行くバーなどよりも気のきいた名前がいくつか目についた。
中でも「サンドパイパー」などは気に入った名前で、毎日のように飲みに行っていた。この店はカウンター・バーで、女はカウンター内に二、三人しかいないのだが、居心地は悪くなかった。外人バー特有の一杯ずつ現金で払って飲むシステムだから、ボラレル心配もないし、また勘定も横浜と較べると格安だった。
この頃、私はまだクリスチャンではなかったが(洗礼を受けたのはハワイ大学留学中)、夜な夜なネオン輝く飲み屋街を彷徨するのは、なんとなく気がひける。初めの何日間かは真面目に見張り番をしていたが、とうとう我慢できなくなって飲みに行き始めた。飲んでいる間に資材の盗難が起こると大変なことになるのだが、運を天にまかせて、毎晩酒を飲みに出かけた。
この街の女たちの生きざまは強烈だった。私に文才でもあれば、彼女たちのことを小説に書くところだが、そんな才能はない。
将校のオンリーになり、次々と同棲の相手を変えながら年齢(とし)だけ取っていく女たち。自分と同じぐらいの若い女たちがスカートをめくり乱痴気騒ぎをする様子は異様な光景だ。私が日本人だと分ると、これみよがしにアメリカ兵に痴態のかぎりをつくす女たち。日本が戦争に負けなければ見なくても済む光景である。
女たちに較べると、アメリカ兵たちは気のいい、陽気なヤンキーばかりだった。彼等とよくしゃべり、おごられたり、おごったりしながら酒を飲んだ。この時ほど英語の練習になったことはない。毎晩、英語をしゃべりまくっていた。