岩国のセンターが無事落成し、バーロー一家も岩国へ引っ越して、とうとうコイノニア・コーナーも閉塞されてしまった。バーロー先生が借りていた住いの一部(離れの一軒家)をそのまま継続して借り、週に一回、岸根(きしね)のアーミー・バラックスから兵隊たちをバスでここへ連れてきて、今までコイノニア・コーナーに来ていた人たちも呼び、パーティーを主催することになった。私がこの仕事の責任者になり、この一軒家に住むことになったのである。
この家は外人墓地続きの丘の上にあり、平楽中学校から少し根岸ハイツ(アメリカ軍の住宅地)の方へ寄った所にあり、八畳一間、六畳二間、二畳の小部屋が二間、四畳半のキッチンと風呂、廊下に玄関のついたかなり大きな家だった。かなりの給料をもらい、電気・ガス・水道・電話代はNCC持ちで、しかも、お手伝いさんが週一回、掃除・洗濯までしてくれるのだから、学生のアルバイトとしては最高の待遇である。仕事は週に一回だから、まったく楽なものだった。
このパーティーからは、友人のM嬢とD・ラムゼイ君との幸せな結婚も生まれた。彼はセヴンスデイ・アドヴェンティスト派の酒も飲まない、タバコも喫しない超真面目な上等兵で、韓国に駐屯中だったが、休暇で来日中、このパーティーに出席した時に彼女を見染めた。韓国に帰ったあと、手紙のやり取りを重ねるうちにプロポーズ、除隊後結婚にこぎつけた。大卒の召集兵で、二年間の兵役を終えるところだったが、最愛の伴侶を見付けられたのも、このパーティーのお陰であろう。
この二人には、ハワイ大学留学中に一度会ったきりだが、オハイオ州トリードで今でも幸せに暮していることと思う。このパーティーも数カ月後には廃止になり、ヨコハマ・サーヴィスメンズ・ガイドがスタートすることになる。
横浜の北桟橋(ノース・ピアー)はアメリカ軍に接収されていた港で、アメリカ陸軍が管理していた。ノース・ピアーには兵員輸送船が定期的に入港し、一、二泊する。船が入港すると兵隊たちは上陸許可をもらって、数百人がいっせいに下船してくる。大多数の兵たちは酒と女を求めて町へと繰り出すのだが、どっと繰り出してくる「迷える小羊たち」に、できるだけいかがわしい(、、、、、、)場所に行かせないよう観光案内をする。これがヨコハマ・サーヴィスメンズ・ガイドの仕事になった。
ノース・ピアーのパッセンジャー・ターミナル(船客用ターミナル)は上船待ちのお客や見送り、出迎えの客でごったがえす。当時、軍人たちの旅は飛行機よりも船のほうが多かったのだろう。毎月五、六回は客船(輸送船)が入港していた。このターミナルの外にドルの両替所が入港時には仮設され、そこのすぐ近くにヨコハマ・サーヴィスメンズ・ガイドのブースを出す。数百人が一度に下船するわけだから、私一人では手に負えないので、友人たち数人に手伝ってもらう。ちゃんとアルバイト料を払うわけだから、みんなには感謝されたはずである。
仕事はもっぱら、兵隊たちの質問に答えることで、英語が話せなければ役に立たないのだが、O君などは英語がろくにしゃべれないので、パンフレットだけ配っていればいいということにして、手伝ってもらっていた。兵隊たちは下船してくるなり、
「ここはどこだ?」
「一番近いバーは?」
「この辺ではどこに女がいる?」
「ここへ帰ってくるには、どうしたらいい?」
「タクシーはどこだ?」
と、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
酒と女を求める兵隊たちは、ドルを円に替えるとすっとんでタクシー乗り場に走っていく。行く先はタクシーの運転手たちが知っているから、言葉の問題はない。チャイナ・タウンの外人バーへ直行し、またたく間に二、三十ドルまきあげられる。最初に両替した日本円がなくなると、近くのゼブラ・クラブ(軍の下士官クラブ)に行き、またドルを日本円に替えて、女のいるバーへ出かけていく。
真面目な連中や金のない兵隊は、我々のブースに集まってくる。横浜に関する案内を聞き、地図入りのパンフレットを手にして、町へと出かけて行くのである。
パンフレットを配り終え、兵隊たちが居なくなると、ブースをかたずけて、基地を出る。たまには、一緒に飲みたいという兵隊たちもいるので、出来るだけ安い酒場に案内してやるのだが、酒が入ると女が欲しくなり、最後はチャイナ・タウンで沈没する。