夜は、大型トラックの上に十個ばかりスリーピング・バックをしいて、空いた寝袋にもぐりこむのである。生まれて初めて寝袋に寝たが、あの寒い時でも大変暖かく、寝心地は悪くなかった。なにせ、この五日間は、一日二十四時間、三時間おきにたたき起されてオン・デューティーとなるわけで、走り終わった者がトラックに戻っても、奥の寝袋しか空いていない。手前の寝袋をまたいで奥のほうへ行くのだが、その時はもうトラックが動き出していて、ふらふらして他の人の足を踏むことがある。人の足を踏もうものなら、ぐっすり眠っていた者でも、あまりの痛さに飛び上がり、それこそ、日本語には翻訳できないような汚い罵(ののし)ことばが飛びだして、いまにもぶんなぐりあいの喧嘩になるかと思う状態になる。
とにかく、足脚(あし)の痛いこと痛いこと。特にトラックからおりる時、地上に足をつけたその瞬間の痛さは格別で、丁度、脚がしびれた時のように頭の天辺(てつべん)までピリピリッと痛さが突き抜ける。靴ずれの痛さも踵(かかと)の部分は何んとか我慢できるが、足の指先の豆は我慢できない。仕方ないので、運動靴の指の部分の豆が接触する個所をカミソリで切り取って、布地が豆にさわらないようにした。
初日の夜中、午前一時頃、箱根の峠越えが私の受け持ち区間になり、峠の途中から三島のほうへと歩くのだが(とても走れるような場所ではないので)、雪は降ってくるし、定期便のトラックはビュンビュンと猛スピードで走ってくる。しかも歩道なんてシャレタものもないので、山側にへばりつくようにして進むしかない。この時だけは生きた心地がしなかった。
懐中電灯を片手に、帽子とジャンパーに螢光塗料を塗ったテープを貼り、車に跳ねられないように、一人とぼとぼと真暗闇の中を歩く。足は痛いし、寒いし、淋しいし、定期便はビュンビュンでこわいし、座り込んでも、山賊(?)に襲われるぐらいで、誰も助けには来ないだろう。とにかくトラックの待っている麓(ふもと)まで歩いて行くしかない。まるで、時代劇の夜中の関所破りの気分であった。
みっともない話はこのぐらいにして、この五日間の食べ物の話をしよう。軍の携帯食糧の話である。KレーションとかCレーションとか呼ばれている野戦用のカン詰めの食糧のことだが、こんな物を食べたのは、あとにもさきにもこの時だけだった。
冬の一番寒い時に、支給されたカン切りであけ、中味を暖めもせずにプラスチックのスプーンで食べるのである。暖めて食べれば結構いい味なのだろうが、冷たいままをスプーンで食べるわけだから、まるでカン詰めのカレーをそのまま食べるのと同じである。一回きりならまだしも、一日三回、丸五日間、合計十五回も食べれば、大抵の奴なら嫌になってしまう。
一食分の量は十分あるが、どんな種類のものでも、かならずビーンズ(豆)が入っている。ポーク&ビーンズ、ハム&ポティトー&ビーンズ、ベーコンと何とかとビーンズ、という風にである。西部劇などで、カーボーイが野営する時、ビーンズをフライパンで料理して食べているシーンをよく見るが、そんな時、「たまには豆以外のまともな食い物を食べたい」というセリフがよく出るくらいに「まともな食い物ではない」ということなのだ。
とにかく、これが終わったら、二度とビーンズは食わないぞと密かに心に誓ったのだった。今でも、豆料理はほとんど食べないし、好物のチリ・カンカーニでも、豆が入ったものは食べない。終戦後、あまりにもサツマイモばかり食べさせられたので、私は今でもサツマイモを食べないが、これと同じなのである。
唯一の楽しみは、このKレーション、Cレーションに入っているタバコとクッキー、クラッカー類だ。クラッカーにはジャムがついているので、疲れた身体には大変うまかった。しかし、なんといっても一番の楽しみはタバコだった。
軍の携帯食糧に入っているタバコはかなり年月のたつものだから、大抵からからに乾燥している。だが、その頃の日本のタバコは品質も悪く、まあまあのタバコはピース、ふじ、ホープぐらいしかなく、しんせい、いこいなどはひどいものだった。乾燥してるとはいえ、キャメル、ラッキーストライク、チェスターフィールド、ポールモールという両切りタバコである。やせてもかれても洋モクで、タバコ屋で買えば国産の何倍かの値段になる。量は十分にあったので、この五日間、タバコだけは買わずにすんだ。
もっともきつかったのは、二日目と三日目だった。私も三日目にはとうとうダウンしてしまった。しかし、一回抜けただけで、復帰したと記憶している。四日目に広島を通過する時は復調していて、私の郷里でもあるし、一番いい所を走らせてもらった。平和公園や母校の近くを走った時は、さすがに誇らしい気になり、胸を張って走り抜けたのである。
関門トンネルは走れないので、全員トラックで九州に入ると、目的地も間近になり、全員、急に元気になった。二日目にへばった海軍の軍曹も元気を取りもどしていた。古参の下士官たちはスピードはあまりないものの、持久力は抜群で、時間がたつにつれて調子がよくなり、歴戦の兵(つわもの)の威厳をいかんなく発揮していた。
海兵隊の若い伍長がただ一人、豆の一つも作らないで、自分の受け持ち区間プラス、私の抜けた分や他のメンバーの分まで走り、一度も歩くことをしなかったようだ。さすがは、タフ・マリンの代表選手、全員の尊敬を集めていた。二人の大尉も、一度も弱音をはかなかった。まさにリーダーは違うということだ。
別府の市内に入る頃には、また雪が降り始め、市内に入ってからは、交替で走るのをやめて全員で走り、五日目の午後七時頃には光の園孤児院に無事到着した。
孤児院では、この雪の降る中を子供たち全員、庭にでて我々を出迎え、暖かいスープとサンドイッチで歓迎してくれた。子供たちは口々に「おじさんたち、ありがとう」と言い、我々に抱きついてくる。彼等はこの寒い雪の中で、今か今かと待ちわびていたのだから、みんなの感激もひときわであった。
私の胸もキューッと締めつけられ、子供たちの心の底からの感謝のことばを聞くと、自然に涙が出てきた。「おじさん、ありがとう」この一言ぐらい心のこもった感謝のことばはない。顔中、喜びにあふれた子供たちにとりかこまれたキャプテン・アーンの顔は、今でもはっきりと私の目に浮んでくる。今や私も、彼と同じ年齢になった。
シスターたちのあいさつも終わり、我々はその晩、用意されたホテルに泊り、翌日、横浜へ帰ることになった。
ホテルの大浴場に入った時は、全員、恥も外聞もなく歓喜の声をあげていた。湯舟の中で手足を伸し、この世の極楽とも思える心地良さを口々に言い合っていた。あの時の風呂ぐらい気持ちの良い入浴は、これが初めで、最後といってもいい。汗の臭いと垢のたまった身体の疲れは、潮が引くようにとれていった。
翌日、朝食をホテルで済まし、大尉たちは忙がしいので、軍用機で帰ったが、我々は残念ながら、この飛行機に便乗することができないので、汽車で帰ることになった。