英語発音ならスギーズ! ◆ 連載小説 ☆ 我が英語渡世◆スギーズの英語人生、英語教材開発への情熱、ニューヨークでの生活の様子などをご一読下さい
◆ 連載小説 ☆ 我が英語渡世 ◆
VOL.45
著者 杉本 宣昭 
第四章 ヨコハマは英語の宝庫
束の間の芸能界入り

 大学三年の夏休み、親しくしていた「ナイト・アンド・デイ」(当時有名だった横浜のナイト・クラブ)の社長、章さんにアルバイトをしないかと誘われた。章さんは中国人の実業家で、当時は五十代なかば、クラリネットも吹くし、京劇の楽士でもある多芸な人だった。

 奥さんは日本人で、男女二人の子供がいて、息子が私の隣家の次男と同級の小学一年生、二人ともインターナショナル・スクールのセントジョセフ・カレッジに通学していた。私は隣家の息子の家庭教師もしていて、両親は英語を話さない典型的な日本人だから、PTA代理もかねていた。この二人は仲がよかったので、両家は家族ぐるみで付き合っていたこともあって、私も章さん一家と大変親しくなっていたのである。

 アルバイトの内容は、章さんが経営していた中華料理店・毎日飯店の英文メニュー作成やら英文パンフレットのコピーを書いたりしながら、ナイト・アンド・デイで章さんの代理をつとめることであった。社長の代理といっても、そこに居ればよいという程度のことで、何も経営にたずさわるわけではない。毎夜八時ぐらいから夜中の二時までクラブに居て、時々、外人客のテーブルを回ってあいさつをし、外人客とのトラブルを解決するぐらいで、大抵は中二階奥のテーブルに座って、コーラでも飲んでいればよいという退屈な仕事であった。

 しかし、従業員には社長代理というわけにはいかないから、一応MC (Master of Ceremony ショーの司会者)もやるということにしておくとのことだった。私が練習でもして、本当にMCができるようになれば「やらせる」つもりではいたらしい。だが本当にMCをやる破目になるとは夢にも思っていなかった。

 その頃、クラブ専属のMCは歌手のジェレ・コスビーというアメリカ人の女性歌手だった。ある時、彼女が地方公演のため二週間ほど休むことになり、急にMCがいなくなった。

 二十一歳の学生がオーナー代理として、奥のテーブルにどかっと座っているわけだから、他の従業員にしてみれば「なまいき」な存在である。みんなは私に見張られていると思っているからなおさらで、いつかやっつけてやろうと手ぐすね引いて待っていた。そこへジェレがいなくなったものだから、チャンス到来ということになった。

 その日のショーが始まる一時間ぐらい前に、マネジャーがやってきて「ジェレ・コスビーが当分旅にでるので、MCは杉本さんにやってもらいたい」と言う。「MCはあなたがやることになっているので、今夜からやって下さい。あなたの他には誰もやる人がいないので」と言い、私に一枚の紙切れを手渡した。それには、バンドや歌手の名前、ショーの踊りの曲名しか書いてない。「ははあ、MCをやらせることで、私に赤恥をかかせようと思っているな」とすぐにピンときた。

 あとでわかったことだが、こういう場合はマネジャーがやることになっていたのだ。しかし、私はそんなことは知らないものだから、「他に誰もいないのなら仕方がない。やりましょう」と、彼等の挑戦を受けて立つことにした。だが、時間は一時間後に迫っている。

 当時のナイト・アンド・デイでは、外人客が三分の一はいた。ということは、三分の二が日本人客。日本人は英語がわからない。だが外人も結構いるわけだから、ショーの司会を英語でやってもおかしくない。「英語でMCをやれば、三分の一の外人客に対して恥をかいても、日本人客にはわかりはしない」と判断して、「英語でやってごまかしてやれ」と自分自身にいい聞かせた。

 出番三十分前から楽屋に入り、マネジャーに渡された紙切れを見ながら、口の中でぶつぶつと司会のセリフを練習するのだが、またたくまに本番を迎えることになった。

 ショー・タイムを知らせる曲をバンドが演奏し始める。ころあいをみて私はステージに出て行った。マイクの前に立った瞬間、スポット・ライトを浴び、強烈な白光が目を射る。とたんに客席が真暗になった。白光の向うはまるで真黒な幕が降りたかのようで、一瞬、お客は全員幕の向うに隠れてしまった。

 私にはお客の顔が全然見えない。これが幸いしたのか、ステージに出るまで高鳴っていた心臓の鼓動がおさまり、「皆さん今晩は。当ナイト・アンド・デイにようこそ。ショーの時間でございます……」と十年もやっているプロのごとく立て板に水のように英語でしゃべりだした。だが、「皆さん今晩は」と日本語にスイッチしてしゃべり始めると、急に詰ってしまった。日本語の方がうまくでてこないのである。しかし、ここでもたもたするわけにはいかない。すぐに英語にスイッチ・バックして、なんとか無事に最初のショーが終了した。

 私に赤恥をかかせて「ざまあ見ろ」と言いたかった従業員たちは、期待はずれでがっかりしたようだった。次のショーも無事にこなしたあとは、「初めてのMCとはとうてい思えない」などとお世辞を言いはじめ、私の方こそ「ざまあ見ろ」という心境であった。

 次の日から十日間ほど毎日ショーの司会をしたが、やはり素人のMCでは、しらける。とうとう「あとはマネジャーがやるから」と章さんに言われ、お役御免になった。二日後にはジェレ・コスビーが旅公演から帰ってきて、もう私の出番はなくなった。

 この時期に、当時アメリカ海軍将校クラブのジャズ歌手で、ニュー・ラテン・クオーター(赤坂のナイトクラブ)の専属MCをやっているチャーリー湯谷とも友達になったが、私とショー・ビジネスのふれあいも、夏休みが終わると同時にピリオドが打たれた。

 横浜にはブルー・スカイとナイト・アンド・デイの二つのナイト・クラブがあったが、ブルー・スカイは東京オリンピックの年、昭和三十九年に閉塞され、ナイト・アンド・デイも数年前に閉店した。横浜にはナイト・クラブはこれでなくなってしまった。

 ディスコやキャバレーが多くなり、東京でも、フルバンドを使ったナイト・クラブは赤坂のニュー・ラテン・クオーターのみとなり、大変淋しくなった。かわりに、ホテルなどのディナー・ショーが有名なバンドや歌手を出演させてお客を集めているが、常時やっているわけではない。昭和三十年代のナイト・クラブ全盛時代は、もう二度と帰ってこないのだろうか。


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