東京オリンピックのあと(昭和三十九年十二月)、留学のためハワイヘ旅立つまでの約六カ月間にもいろいろなことが起こった。留学資金を稼ぐために、日本での最後のアルバイト、ワイン・スチュワードをすることになったのもその一つだ。
バンドー・ホテルから少し本牧のほうへ寄った場所に、アメリカ海軍の将校用独身寮ベイサイド・コートがあった。ここには独身寮の他に将校クラブがあり、このクラブの責任者だったコーネル大学のホテル・マネジメント科出身の少尉にある日紹介され、「新しくワイン・スチュワードをおいて、ワインの売り上げを伸ばそうと思うのだが、手伝ってくれないか」と言う。私が「ギャラさえよければやる」というと、「月に六万円だす」という。二つ返事でO・Kした。勤務時間はタ方の六時から十時までの四時間だから、かなり良い収入だ。当時の大学新卒の月給が一万八千円から二万二千円ぐらいだから、今でいうなら月に約四十万円の金額だ。
彼は、ROTC (Reserved Officers Training Corps 予備役の将校を養成するために、一般の大学に設けられた軍事教練)のコースの単位を取って、コーネル大学を卒業と同時に少尉に任官した一年生将校だった。ホテル・マネジメント専攻の男だから、新しいことを試してみたかったのだろう。年齢は私と同じ二十二歳だったと記憶する。
ワイン・スチュワードとは別名ワイン・マスターと呼ばれ、私の聞いた話では当時帝国ホテルに一人居ただけだから、私が日本で二人目のワイン・スチュワードということになった。
この仕事は本来ワインの専門家がやるもので、欧米では大変権威のある職業だから、私のようなずぶの素人のやる仕事ではない。しかし、彼は「ワイン・スチュワードをクラブにおくことにより、高級な雰囲気を与えて、全体の売り上げがあがればよい」というし、アメリカ人のワイン・セールスマンも「どうせ」将校といっても、ワインの事など何も知らない連中が相手だから、心配することはない」という。セールスマンのくれた資料でワインのにわか勉強をし、さっそくスタートすることになった。
ワゴンに特殊な木の台をつけて、ワイングラスを台の外側にぶらさげ、ボトルを満載し、首には大きな鍵を鎖でつりさげて、一応格好だけはついた。これを押してテーブルの間をまわるのだが、お客にすすめるタイミングは難しい。一つのテーブルでタイミングをつかみそこねると、ワインを売るチャンスがなくなる。サラダを食べ終えて、アントレがでてくる前が一番いいタイミングだった。
将校といえどもみんな月給取りだから、金持ちはいない。新任の少尉で月給三百ドルちょっと、大佐クラスで千ドルいくかいかないかである。だから、売れるのは安いアメリカ産のワインかポルトガルのワインで、本場フランスの高級ワインはなかなか売れない。
売れるものは大体一本二ドル前後のもので、ポルトガルのロゼ、マテウスは一本たしか一ドル二十五セントだったので、私のすすめ上手もあってか、このロゼはよく売れた。一本四百五十円。スコッチ一杯が二十五セントの時代だからスコッチ五杯分。あまり安くもなかったかも知れない。
アメリカ、主にカリフォルニア産のワインではポール・メソン社のエメラルド・ドライという白のワインはなかなか美味(うまい)ワインで、私もよくお客にすすめていた。さすがにシャンペンはフランス物がよく売れたが、それでも一本四〜五ドルという値段で、日本のレストランで飲むよりも二倍も三倍も安かった。
ワイン・スチュワードも五〜六カ月やるとワインに関する知識もなにがしか増えて、ハワイ大学を卒業し、社会に出てからはワインに関して多少は能書きが言えたから、この仕事も役に立った。
この将校クラブには、前出のチャーリー湯谷が専属歌手で出演しており、白系ロシヤ(母親)と日本人(父親)の混血美男歌手だから、女性には終始追いかけまわされていた。彼とはよく一緒に酒を飲みに出かけたが、女は全員彼の方へ集まるので、私は醜男(ぶおとこ)の悲哀をかこつことになった。
このクラブで働いていた時に忘れられないことに、コックの海坊主のような大男とケンカになりかけたことである。その日は大変忙がしい日で、全員がピリピリしていた。何かのきっかけで、彼と口論になり、彼がかんしゃく玉を破裂させ、包丁を振り上げ、私に向かってきた。私もカッカしていたので、「やるんならやろうじゃねえか」と身構えてしまった。床は水びたしにしてあるから、足がつるつるとすべる。足元がこんな具合で定まらないのだから、まともなケンカになんかなったものではない。幸い人が止めに入ったから良かったものの、そうでなければ腕の一本もなくしていたかも知れない。
この期間は留学の準備などで忙がしく、時間はあっというまに過ぎてしまい、私の横浜時代にも幕が降りることになる。ここに住んだ四年半を振り返ると、ヨコハマと私は、英語を通しての関係であった。大学は三年生の頃からほとんどさぼりっぱなしで、ろくに勉強らしいことはしなかったが、英語を使うことに関しては、学校では習得できないことを自然に身につけた。しかも英会話学校へ行ったわけでもないし、特定の先生についたわけでもない。先生といえばアメリカ兵たちであり、バーで一緒に酒を飲んだ外人たちである。私の英語の上達も高校時代に発音をマスターしていなければ、ありえなかったであろう。