昭和三十九年十二月八日、私は午前十時の日航機で羽田空港をハワイへと飛び立った。
ハワイ大学への入学許可は前年の秋には入手していたが、スポンサーの都合で入学が延び延びになっていた。やっとスポンサーも見付かり、無事、経営学部マーケティング科に転入することができた。
青山学院大学英文科時代は課(サ)外活動(ポリ)のほうが忙しかったために四年間では卒業できず、五年生目をやっていた。大学の一、二年は普通の学生なみに勉強したが、三年生の時は丸々遊んでしまった。あまり遊びすぎたせいか、これではいけないと思うようになっていた。
四年生の初めのことだと思うが、どういうわけだか広告に興味を持つようになって、将来は広告業界に進みたいと思うようになっていた。そのためにはマーケティングを勉強する必要を感じたのである。
当時、日本の大学ではマーケティングを教えるところはほとんどなく、ゼミなどでほんの少し取り上げられていたぐらいである。教える教授もほとんどいないし、二、三人いたとしても、大抵は商学部の教授でマーケティングの本を一、二冊読んだていどの付(つ)け焼刃(やきは)だ。マーケティングを勉強しようとすると、アメリカへ留学する以外に手段がない。
留学先をいろいろ検討してみたが、親からの仕送りが期待できない貧乏人には、学費の安い大学しかない。学費の一番安いハワイ大学に白羽の矢を立てたのである。
州立大学の多くは、州内に定住していないノン・レジデント・スチューデントや留学生たちからは高い月謝を取っていたので、レジデント・スチューデントと同額の月謝で受け入れてくれるハワイ大学は理想的だった。当時は一学期八十六ドル。カリフォルニア大学は同じ州立大学でも四百ドルぐらいだったのだから八十六ドルは格安だった。
ハワイは日本から一番近い所にある。飛行機代が片道三百二十ドルだったと記憶している。一ドル三百六十円だから十一万五千二百円だ。新卒サラリーマンの五ヵ月分の給料だから、今から較べるとハワイも近いようで日本人には遠い所にあった。だがアメリカ本土と較べると片道で百ドルは安い。旅費の面からみてもハワイは一番安く行ける所だった。
当時の日本にはまだ観光ビザがなく、観光目的の海外渡航は不可能で、日本から持ち出せるドルも最高五百ドルまで、海外送金なども大変難しい時代だった。だから、五百ドル以上の現金を持って行くには、闇(やみ)ドルを一ドル四百円で買って行くしかない。日本人が観光ビザで海外旅行ができるようになったのは昭和四十一年からで、この年から日本人の観光客がハワイへどっと押し寄せた。
ハワイには時差の関係で十二月七日午後七時か八時頃に到着した。イリカイ・ホテルに旅装をといて、すぐ近くのバーヘ一杯飲みにでかけた。英語はアメリカ人並みに話せたので不安は全然ない。時間は多分十一時頃だった。カウンターで一杯やりながら、隣りに座っていた日系人と世間話を始めた。
「お前はどこから来たのか?」
「今、東京から来たばかりだ」
「冗談だろう」
「とんでもない。二、三時間前にホノルルについたばかりだ」
アメリカは生まれて初めてだ、というのだが全々信用してくれない。「パスポートを見せてやる」と言ってパスポートを出すと、
「今日がなんの日か知らないのか?」
「確か計算によると、今日はまだ十二月七日のはずだが……」
「そうだ。まだ十二月七日、パール・ハーバー・デイだ」
といわれ、これはとんでもない日に来たものだと思った。
日本では、戦争に敗れた日を記念して終戦記念日といって毎年ジャーナリストが騒々しく書きたてるから、この日はいやがおうでも覚えているが、開戦の日は開戦記念日として誰も騒がないから、つい忘れてしまう。今の若い人たちなら、知らない人が多いだろう。私と同年輩の人たちでもあまり覚えていないだろうと思う。たまたま私の誕生日が開戦の日の一ヵ月後、一月八日なので記憶していたのだが、その時はすっかり忘れていた。覚えていれば、一日、二日ずらして出発するところだが、あとの祭りである。旅行代理店の人もこの事を忠告してくれない。まったく無神経だったと今でも反省している。
アメリカでは日本の真珠湾攻撃は「騙し討ち」と思われており、大変卑怯な攻撃だということになっている。日本人はこれを卑怯な行為とは思わない、夜討ち朝駈けは武士の常套手段と思っているから、その類(たぐ)いだと思っているからたいして気にしない。ところが、宣戦布告をしないで戦さをしかけることはアンフェアと考えるアメリカ人たちは、未だにこのことを忘れない。
「また、日本からのスニーク・アタックに違いない」
と彼がいい、大笑いになった。彼がもう一軒付き合えというので、それからゴーゴー・バーヘ行き、朝の二時頃まで酒を飲み続けた。この時のことは、時々ジョークとして語って来た。