英語発音ならスギーズ! ◆ 連載小説 ☆ 我が英語渡世◆スギーズの英語人生、英語教材開発への情熱、ニューヨークでの生活の様子などをご一読下さい
◆ 連載小説 ☆ 我が英語渡世 ◆
VOL.53
著者 杉本 宣昭 
第五章 ハワイ留学、英語とマーケティング修業
アメリカ人の学生も英語は苦手

 日本人に「あなたは日本語が苦手ですか、それとも得意ですか?」と聞くなら、「こいつ何を言っているのだ」ということになるだろう。日本語の苦手な日本人など動物園のパンダやコアラ・ベアー、エリマキ・トカゲほどに珍しい。しかし、「あなたは国語が得意ですか?」と言えば、「いや、私は苦手だ」という人が多いだろう。

 国語の得意な人は小説家や一部のもの書き、あとは国語の先生ぐらいしか頭に浮かばない。日本語と国語は、このように少々ニュアンスが違うのである。国語というと、難解な文章を理解したり、上手な文章を書くというような能力と関係があり、私などはこの両方の能力が欠如していると自他ともに認めている。

 英語も同じで、ただ日本のように日本語と国語というように言い分けていないだけなのである。大体、どこの国でも、言語は書くほうが難しい。アメリカ人の学生も英語を書くことは苦手のようで、必須のビジネス・イングリッシュのクラスは最後の最後まで残してしまい、卒業間近の学期に取る人が多く、このクラスだけはほとんど四年生だった。このクラスは、日本でいえば国語のクラスで、もっとも日本の大学にはこんなものはないが、社会に出ても恥をかかないように英語の文章力をつけさせる目的で設置されたもの。アメリカでは英語を書く能力が重視されるため、いわゆる「英語の綴(つづ)り方(かた)教室」は経営学部の学生の必須単位だった。

 アメリカの大学は日本のように各学年で全員同じ科目を取るということはなく、大体において自分の得意な科目から取っていき、成績を良くしておこうとする。だから、多くのクラスは一年生から四年生までの学生が受講するし、専門科目によっては大学院生も取得しなければならないから、大学院生たちも学部のクラスを受講する。

 私が取ったビジネス・イングリッシュのクラスは全員四年生だったと記憶している。このクラスでは全員四苦八苦していた。先生は女性の専任講師で三十代なかば。

「ミスター・スギモト、あなたはそんなに素晴らしい英語を話すのに、英語を書くと、どうしてこうもひどくなるのか」と言われた。

「私が推察するには、どうも書く時は日本語で発想し、それを英語に翻訳しているようだ。だからひどい英語になるのだろう。あなたは英語を話すように書けば、もっと良い文章が書けるはずだ」という。

「テープ・レコーダーを使って、自分の書きたいことを口述録音するといい。あとでそれを書き取ってごらんなさい」

 早速(さつそく)その通りにすると、

「そらごらんなさい。良い文章が書けるようになったではないですか」

 まったくその通りだったが、時すでに遅く、残念ながらAやBは取れず、成績はCだった。

 英語で文章を書くのはアメリカ人も苦手だが、アメリカの会社員には書く能力が要求される。そのため、ビジネス・イングリッシュというようなビジネス英語の書き方のコースが大学に設置されるのである。日本の企業では文章力の向上を求めたりしないから、大学の商学部、経済学部、経営学部などで「日本語の書き方」とか「商業日本語」などという科目があるとは、一度も耳にしたことがない。

 書くことに較べると、日常の会話など何倍もやさしいと言っても過言ではない。日本人で英会話のできる人は多いし、英語でしゃべるのが上手な人もかなりいる。しかし、しっかりした英語の書ける日本人は非常に少ない。英語らしい英語を書ける日本人には未だに一人もお目にかかっていない。村松増美などのように、同時通訳の大家たちは別かも知れないが。

 どうも書く能力としゃべる能力は別のもののようだ。しゃべるように書けとはアメリカ滞在中によく言われたことだが、日本人が英語を書く場合はどうも「しゃべるように書いても」うまくいかないようだ。我々にとっては特別なトレーニングが必要なのだろう。

 しゃべることはある程度のコツと発音を習得すれば割合簡単にできる。録音でもしない限り、言葉は話すあとから消えてしまうので、あとにも残らない。しかし、書いた物はあとに残るから、複数の人たちのきびしい吟味と批評の目にさらされる。

 特に英語の世界では、単に文法的な間違いや表現の稚拙のみならず、文中のロジック(論理性)が問題となり、書き手のインテリジェンス(知性)の評価となるから気を付けないといけない。欧米の企業人、特にトップの座にあるような人たちは、人間の能力を本人の書いた文章から判断するという悪癖がある。私などは、彼等のこの悪癖に何度泣かされたことか。未だに恥ずかしい思いを幾度も繰り返している。

 日本人の書いた英文は一目でわかる。日本語的表現が多く、英語らしい表現になかなかならないからである。日本語的発想から抜け切れないからで、別にこういう表現がすべて駄目というわけではないが、読む人に理解してもらえなかったり、あまりにも文章が奇異になったりすることがあるから、気を付けなければならない。読む人に理解してもらえなければ、なにもならないのだから。

 鈴木孝夫の著書『閉された言語・日本語の世界』の中で、「日本では年間二千種類もの英文文献が日本語に翻訳されているが、英語に翻訳されている日本の文献は二十五点ぐらいだ……」と述べている。これはあながち「西洋の知識を取り入れるのに忙がしく、日本の文献を外国に翻訳して日本文化の紹介に手がまわらない」というだけではなく、「英語を書く能力の欠如」が原因なのかも知れない。

 英訳というと英米人の手になるものがほとんどで、日本人の手になる英訳書は大変少ない。日本文学の翻訳などはドナルド・キーン先生やサイデンステッカー先生たちのものが多い。文学などの英訳となると、英語の表現力がよほどないと、読者の目に耐えられるようなものは書けないから、仕方はないかも知れない。しかし他の分野のものなら、日本人の学者にも出来そうなものだが、数が少ないのは、私を含めて英語を書く能力の問題だろう。

 日本の企業が作る英文のカタログやパンフレットの類に使われる英語には、珍奇なものが多い。英米人のコピー・ライターが書いたものは別にしても、日本語から英語に翻訳されたものには目をおおいたいような表現が沢山ある。それらをまとめて一冊の本にしたら面白いと思う。

 先日、飲み仲間のイギリス人と彼のフランス人ガール・フレンドと一杯やりながら、「我々日本人は・・・」とやると、彼女が「その我々日本人という言い方はやめてくれ」という。大変耳障りで、フランス人でもイギリス人でも、「我々フランス人」とか「我々イギリス人」とは決して言わないという。このように習慣の違いから、耳障りな表現が他にも沢山あるのだろう。

 A・J・レゲットの著書『日本の物理学者達が書く科学英語に関する覚え書き』には、英語に翻訳不可能な表現として次の表現があげられている。

 (一)、……であろう。

 (二)、……といってもよいのではないかと思われる。

 (三)、……と見てもよい。


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