勉強の話はこれくらいにして、ハワイ時代のアルバイトの話をしよう。
前述のように、ハワイに着いたのが十二月七日のパール・ハーバー・デイだから、正月も間近に迫っていた。大学が始まるまでに約二ヵ月の余裕があったが、ふところ具合は大変心細いもので、アルバイトの口があればなんでもしたい状況にあった。もっとも最初の学期が終了するまでは、留学生のアルバイトは法律で一切禁止されているのだが、一日や二日のアルバイトなら移民局につかまることもない。
親からの仕送りがあるわけでもなし、奨学金をもらっているわけでもないから、自分で食べていかなければならない。どういうわけだか、アルバイトで学費・生活費をまかなう自信だけはあった。
しかし、ハワイは天下の観光地だ。ここへやってくる人たちの大部分は遊びにくるわけだから、金持が多い。極端な貧乏人は留学生やアメリカ本土からやってくる学生ぐらいで、普通のアメリカ人観光客でも、ここへはお金を使いにくるわけだから、みんな楽しくやっている。そういう人たちが沢山いる中の少数派貧乏人グループのれっきとした一員だから、楽しそうな人たちを横目で見ながら学業とアルバイトに専念するのは、まことにつらい(、、、)事、という他ない。もっとも、「早く卒業してまともな月給取りになろう」という動機への刺激剤には十分なった。
十二月の二十七日か二十八日だったと思うが、とにかくクリスマスが終わった頃だった。知り合いの人から紹介されて「もちつき」のアルバイトを一日することになり、これがアメリカでのアルバイト始めとなった。
もち(、、)は広島式のもので、ボール状に手の平で丸くしたものを板の上で押し潰し、平たく円状にする。あとは、お鏡用のもちだが、丸一日かかってかなりの量をついた。私の仕事はもっぱらつく(、、)方で、電動のもちつき機が二台、フル回転していた。
子供の頃から毎年もちつきをしていたので、別に不慣れではなかったが、電動式は初めてだ。杵(きね)が電動になっている単純な機械で、ストン、ストンと上から落ちてくる。臼に蒸(ふか)し上がったもち米を入れ、もちつき機のスイッチを入れる。臼の前に低い丸イスをおき、そこに腰掛けて、木製シャモジ二本を使い、もち米を中央へと寄せるだけの仕事だが、これが恐ろしくキツイ仕事なのだ。ハワイは暑い所だから仕事中は汗だくになるのは当り前だが、そこへもってきて、蒸(ふか)したもち米の熱気が加わり、しかも、飛び散る米つぶが腕のあちこちにくっついてやけどをする。
五、六分でひと臼がつき上がる。ひっきりなしに二時間もつくと、シャモジを持った個所は豆だらけ、そこへバンド・エイドを貼りながらやるのだが、しまいには手のグリップもなくなり、シャモジをうまくつかめなくなる。そうなると仕方がないから選手交替となる。つく方にくらべると、つき上がったもちを丸めるのは楽なもので、これは女性たちの仕事だった。
総勢二十人ぐらいで、またたくまに大量のもちをつき上げてしまった。数時間後にはアルバイト料の十ドルばかりをもらい、ビールを飲みに出かけたのだが、この時ばかりは、これからこういうアルバイトばかりかと思うと、少々やりきれなくなったのも事実である。
アメリカでは週四十時間というのが、一般人の就業時間数である。月曜〜金曜間の五日、一日八時間労働、これで週四十時間ということになる。日本でもたてまえはほぼこれに準じているが、今、私から英語発音個人教授を受けている入社二、三年目という弟子たちの中には、月に八十時間も残業している者がいるから、彼等は月に六週間働いている勘定になる。
当時のアメリカの最低賃金は一時間一ドル二十五セントだったから、週四十時間働いて五十ドル、月に約二百ドルにしかならない。留学生の場合は週二十時間に限定されているから、この半分、月に百ドルということになる。当時、もっとも貧乏な学生で最低の生活をしている者でも、月に百ドルでは三度の食事がまともに食えない時代だった。大学では月に百五十ドルは必要といわれていた頃である。
最低賃金は現在一時間三ドル四十セントぐらいになっているはずである。二十年前と較べて三倍弱、週四十時間働いても月に五百五十ドルぐらいだから、一人者でもこの金額で暮して行くのは並み大抵ではない。私の知っている留学生でも、現在、親から月に七百ドルは送金してもらっているぐらいだ。
当時でも現在でも、最低賃金で働いている人たちは最下層でも少ない。メキシコあたりから非合法で働きにくる季節農業労働者などが、このぐらいの賃金で働いているぐらいだろう。レストランの皿洗いのような、英語がしゃべれなくてもいいし、頭を使う必要のない単純な手作業でも、きつい仕事なら当時でも二ドル弱の賃金であった。土方などの力仕事はもっと高賃金である。
前述のように留学生のアルバイトにはいろいろな制限がもうけられており、週二十時間までというのが一つ、もう一つは学校での成績が学部の学生はC平均以上、大学院の学生はB平均以上でなければアルバイトの許可がおりない。したがって、留学生なら誰れでもアルバイトができるというわけではなかった。
しかし、金持の子息ならいざ知らず、半数以上は私とほぼ変わらない留学生だったから、アルバイトの許可がもらえないからといって、働かないわけにはいかない。成績の悪い連中は、不法に働くことになる。
許可なしに働いたり、週二十時間以上働いていることが露見して、本国送還になった不幸な留学生もいる。大抵の場合は地元の人が当局へ密告するためで、アメリカ市民の職が留学生たちに横取りされるのは社会的大問題だったから、密告も頻繁に行なわれていた。このように不法アルバイトをする人たちは、いつも露見しはしないかとビクビクしていて、犯罪者のような気持ちになってしまい、精神的な苦痛に耐えきれず、目つきまで変わった人も何人かいた。
我々にまわってくるアルバイトで一番多いのは皿洗いで、次にレストランのボーイの仕事ということになる。ボーイと日本語ではいうが、英語ではバス・ボーイと呼ばれ、ウエイターやウエイトレスとは明確に区別される。
ウエイターやウエイトレスは、れっきとした職業(プロフェッション)でチップの収入が多く、特にハワイのような観光地ではかなり上等な職業である。いいレストランのウエイターなどはプレミアムがついて、権利の買売が可能な職業なのである。
バス・ボーイの仕事はプロフェッションとして認められていなかった。技術はほとんどいらないし、ただ力さえあればよく、テーブルのかたずけやセット・アップをすればよい。バス・ボーイの仕事も皿洗いほどではないが、かなりきつい仕事だから、一時間当りの賃金は皿洗い並みの約二ドルであった。
日本人留学生にとって一番割の良いアルバイトは、バーテンの仕事だろう。ハワイには日本人女性(主に戦争花嫁と呼ばれる人たち)の経営するホステスを抱えたクラブが数多くあった。地元の二世たちが主なお客だが、まさに日本のバーで、ジャパニーズ・バーと呼ばれていた。現在では日本人が経営する店はごく少なくなり、韓国人女性の経営するバーがほとんどで、コリアン・バーと、今では呼ばれている。こういうバーのバーテンダーはチップの収入もかなりあり、酒も飲めるしで、留学生仲間ではもっとも金まわりの良い連中だった。
その他、レストランのコック(本格的なコックではなく、コーヒー・ショップや軽食堂で簡単なものを作る仕事)日本語学校の先生、庭師の下働き等がある。しかし賃金の高い仕事は地元の人たちがするので、留学生にはきつい仕事ぐらいしかないのが通常だった。
私がやったアルバイトで一番きつかったのが、皿洗いの仕事である。特に日本料理屋の皿洗いは大変で、皿洗い機が使えない。皿や小鉢の種類が多い。洋食なら平たい皿が多いから機械が使えるが、日本料理屋の場合は全部手で洗う。しかも、前かがみで洗うから腰が痛くなる。おまけに洗剤で手が荒れ、ひび割れて、少々クリームを塗ったぐらいではなおらないから、長期間やると、年中、手がしもやけになったようになる。私は日本料理屋「ふるさと」で一カ月やって早々とギブ・アップすることになった。