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・ことばを覚えるということは、どういうことなのか

■母国語、自国語、日本ではこれを「国語」と呼ぶ。我々は、小学校、中学校、高等学校を通して、12年間にわたりこの国語の授業を受けるが、学校は「文の解釈や文法の勉強」には力を入れても、書くことのトレーニングや口に出してしゃべることのスキルを教えることは、全くと言ってもいいほど、やらないのである。アメリカなどでは、スピーチ、ディベイト、プレゼンテーションのやり方のトレーニングを中心に「イングリッシュ(彼らの国語)」を教えている。しかもこの教科を「English(英語)」と呼び、「ナショナルランゲージ」「マザータン」などとは絶対に呼ばない。日本人なら、日本語がしゃべれるわけだから、こんなことは教える必要ないとでも思っているのか、また書くことでも、同様に思っているからなのか、学校では全く教えないと言っても過言ではない。漢字さえ覚えさせれば、本さえ読ませれば、文章力などは、自然に身に付くぐらいに考えているのだろう。

■しかしこれが大きな間違いなのは、彼らが世の中に出て就職をすると、すぐにその欠陥が露呈することでも明らかなのだ。彼らに社内で報告書を書かせたり、プレゼンテーションをさせたりすると、惨めな結果となり、「お前たち、学校で何を勉強してきたんだ!」怒鳴れ、そこではじめて、書いたりしゃべったりする練習をひそかにやらなければならなくなる。

■アメリカでは全ての大学で「イングリッシュ」の科目を取らせられる。必須科目なのである。特に書くことが中心で、ハワイ大学留学中に私も取らなければならなかったのだが、アメリカ人の学生たちもこのイングリッシュは苦手で、卒業ぎりぎりまで取るのを伸ばし、最後の学期になって取る者が多いくらいなのだ。小中高で日本よりは書くことをしっかり教えられているはずのアメリカ人も、ろくな文章が書けない者が多くいて、皆、苦労していた。今では「フレッシュマン・イングリッシュ(Freshman English)」と呼んで大学一年生の必須科目となっている 。

■アメリカは日本と違い、子供たちの両親の言葉が英語以外の言語であることが少なくないので、なおさら、公用語の英語の教育に力を入れなければならないのかもしれないが(ヒスパニック系やアジア系の移民がここ20〜20年に急増したので)、それだけではなく、アメリカのような「自己主張が重要」な国では、それをするための手段である「言葉の表現能力」を身に付けないと世の中の競争に勝てないのである。アメリカではサラリーマンの実力は、その人の書く能力によって判断される。だから、文章下手は、絶対と言ってもいいぐらい出世できない。多くの経営者は、知能や論理性は本人の書いた文章に表れると信じているのだ。ロジカル(論理的)で論の展開に隙がなく、簡潔明瞭、快いリズム感、味わいのある言葉の選択が備わっていないと、本当に優秀だと認められない。だからサラリーマンでも学者でも、死に物狂いで文章力を磨くのである。

■「ことば」に関して山本七平氏は「日本人の人生観」の中で次のように言っている。聖書には「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあり、ここで言う「パン」とは「食べ物の総称」のことで、この次に来ることばが忘れられているのだと。それは「アラ・パンティ・レーマティ」で、「アラが英語のバット、つづくことばは『あらゆる言葉』です。それにさらに『神の口を通じて出た』とつづきます」と言われ、我々は、一体、何を基準にして生きているのかを振り返ってみると、「人」が生きる元まで戻ってみることで「それは『あらゆる言葉』であり、われわれの場合は日本語で生きているわけです。これはある意味では『定め』ともいえることで、人間は言葉なしでは生きていけないし、われわれは日本語なしではどうにも出来ないわけです。われわれがものを考える場合は日本語で考える」と七平さんは言われる。人間がものを考えるということは、コンピューターと同じような作業をするわけで、「コンピューターは記憶装置というもがありまして、そこにさまざまなデータが入っており、それによって答えが出てくるはずです。では記憶装置の中がゼロであったらどうなるか。そのコンピューターはもちろん何も答えを出せないわけです。この原則は人間も同じでありまして. . . . . . .記憶の量がその人の発想の範囲をきめてしまうわけですから、『憶える』ということは実に大切な作業のはずです。これからみれば旧約聖書の末尾に出てくる言葉の一つが『憶えよ』であることもまた、不思議ではありません」と言っている。「質の良い記憶の量をふやせばふやすほどその人間の発想の総量はふえていく」わけで、何を暗記させるかが問題となる。「昔の日本ではこれが『四書五経』、キリスト教徒なら『新約聖書』、ユダヤ教徒ですと今でも『五書(トーラ)』でしょう。そしてここで共通している面白い点は、意味を理解しなくてもそれを問題にせず、まず棒暗記させてしまうと言う点です」。

■日本では、この「棒暗記」ということをさせなくなって、何十年も立つが、語学の勉強には、この棒暗記くらい効果的な方法はないのである。ただ問題は「何を暗記させるか」ということなのだ。英語教育を考えるなら、私の長年の持論なのだが、出来るだけ多くのチャンク(chunks、「かたまり」のことで、長くても七つ八つくらいの単語でできた短い表現)を正しい発音で暗記させることなのである。ネイティブ・スピーカーはこのチャンクを沢山頭の中に入れていて、ウインブルドンのテニスの試合のように、双方からポンポンと出てくるのである。だから日本の学生にもこのチャンクをたくさん暗記させて、いつでも引き金さえ引けば弾が出てくるようにさせればいいのである。

■七平さんに言わせれば「不思議なことに、世界中どこの国でも、古典的な教育はこれではじめています。. . . . . . 人間が全く無駄なことを永々とつづけるわけはありませんなので、まさにその通りなのである。