| ■広島の高校を卒業して、東京の大学(青山学院英米文学科)に入ったとき、横浜に下宿することになった。なぜ横浜なのかというと、うるさい叔母が横浜にいて、下宿は自分の近くでなければいけないというわけである。しかし、この横浜に下宿したことで、高校時代の努力がいっきに、ペイオフされることになった。同じ下宿の横浜市大四年生に紹介されて、伊勢崎町のど真中にあった「コイノニア・コーナー」に行きはじめたのがきっかけで、私の英語人生がスタートしたと言ってもいいだろう。
アメリカにNCC(National council of churches in the United states)というキリスト教の色々な宗派をまとめた組織(本部はニューヨーク市にあった)があり、そこが日本に宣教師を派遣し、アメリカのGIたちの基地以外での施設として日本人と交流のできる場所を運営していた。その一つがコイノニア・コーナーで、ここでは兵隊たちが、オフベースの(基地を離れた)憩いの場として、無料のコーヒーを飲んだりしながら日本人のサラリーマンや学生たちと歓談していたのである。日本人でも自由に出入りでき、英会話の練習を目的に多くの日本人がきていた。もちろん、そこには宣教師がいるからキリスト教の匂がぷんぷんしていたのだが、私には全く気にならなかった。
私はここへ毎日通っていた。タダのコーヒーが飲めるのも魅力の一つだったが、英語を話す相手が沢山いるのが最大の魅力なのだ。高校時代は英語をしゃべるチャンスなどないに等しかったが、発音は徹底的に磨き上げてあったから、簡単な文(単語が八つぐらいまでで作られた短い表現でチャンク=かたまりと呼ばれる)を正しい発音でしゃべるだけで、楽に会話ができるのである。
受験勉強はやらなかったけれども、単語力は人に負けないほどつけていたし、文法も一応身についていたから、あとは毎日英語をしゃべりまくればいいので、急速に上達した。自分でも驚くほどで、すらすらしゃべれるし相手の言うこともほとんど全部分かり、GIたちが使うスラングもすぐに覚え、色々な表現があたかもスポンジが水を吸うごとく、頭に入ってくる。
夜になると、GIたちが飲みに連れて行ってくれるようになり、夜な夜な酒を飲みながらペチャクチャとしゃべりまくっていたので、英語をしゃべりはじめて一ヶ月もたたないうちに、GIたちが「お前は(アメリカ)どこの出身か?中西部のどこかだろう」と言うようになっていた。彼らは、私のことをてっきり「アメリカ人」だと思っていたのである。英語をしゃべりはじめて、たった一ヶ月でである。
これには、当の本人も驚いてしまった。「アメリカへは一度も行ったことはないし、日本生まれの日本人だ」と答えると、皆な「うそをつけ」というぐらいだったから、私が高校時代にやった発音中心の勉強は大したものだったのである。
毎日、兵隊たちとコイノニア・コーナーで英語をしゃべり、宣教師たちともしゃべる。ここにくる常連の兵隊たちはかなり真面目な連中で、言葉遣いも上品だし変なののしりことばを使うこともなく、ましてや宣教師のしゃべる英語はレベルの高いものだから、非常にまともな英語を私も昼間はしゃべっていたが、夜になって、兵隊たちとバーへ行くと「ののしりことば」(cuss
words)を頻発し、大いに下下の表現に精通するようになっていった。
ここで大事なことは、上品な英語と下衆な英語の使い分けができることである。そういう意味では、兵隊とも将校とも付き合いがあったので、両方を覚えることができた。
大学の一年の秋には、通訳のアルバイト(東京で開催された国際ローターリークラブの大会の)に一年生では私一人がかりだされ、TIAF(東大・ICU・青学・外語の四大学で競う英語演劇のコンテスト)に一年生では唯一人出演者となったりしていた。とにかく、英語はペラペラになっていたのである。
大学二年生の終わりの頃には、コイノニア・コーナーの宣教師の手伝いをするようになって、かなりのアルバイト料にありつけるようになっていた。大学三年生のときには、外人基地の反対側で平楽というところに、家を一軒与えられ、そこで兵隊たちと学生たちが交流できるパーティーを行う活動や、ノース・ピイアーと呼ばれる米軍の港湾施設に軍の輸送船が入港すると、そこへ「横浜サービスメンズ・ガイド」のブースを設置して、下船してくる兵隊たちに横浜の地図(チャペルセンターと呼ばれていた軍の教会の所在地やその他彼らのためになると思われていた場所など示した)を配布したり、彼らの質問に答えたりする仕事の責任者になったりしていたので、けっこういい稼ぎになっていた。友人たち数人をアルバイトとして雇ってバイト料を払ったりしていた。
当時、最初の安保のデモで大変だった1960年から東京オリンピックの行われた1964年の間だが、横浜の伊勢崎町にも本牧にも中華街(私たちはチャン町と呼んでいたが)には、いわゆる「外人バー」というのが多くあって、日本人はめったに行かなかったけれど、兵隊たちや船乗りたちでにぎわっていた。こういう外人バーへ行くと日本人の従業員(女給たち)には煙たがられたが、兵隊たちとすぐに友だちになれ、英会話の練習にはうってつけの場所であった。こういう外人バーは、横須賀の基地の近くや岩国市の米海兵隊基地の回りなど沢山あって、岩国の基地の近くに「イワクニ・サービスメンズ・センター」を建てるときに、一ヶ月ほど工事の監督に行ったときなど、毎晩外人バーへ飲みに行き兵隊たちとしゃべったものである。残念ながら、今ではこういう外国人バーも少なくなり、英会話を鍛錬できる場所が少なくなってしまった。
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