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メシの種なり
我輩も猫である
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・日本国のことば

■センセイに「お前も俺同様にリングイスト( "linguist" 言語学者)だ」と言われたときは、多少赤面したが、別に大学の先生でなくても、言語と言うものを研究する者ならリングイストといってもはばかりないとは思う。先生などは英語の発音のエキスパートだから "phonologist"フォノロジスト(音韻論者)と呼ばれてもいいかもしれないが、私は別に学者として成功しようとも思っていないし、もっとも、猫を教授に迎えてくれるような大学はどこにもないから、下手の横好きの部類で満足なのだが、言語というのは勉強しはじめたら面白くて、なかなかやめられないものである。

■この間、先生が出し抜けに "Hey, Charlie, how's your Japanese coming? You've been reading a lot lately." と言う。まあ、猫の一日は大変暇で、ほとんど何もやることがないから、他のやつらは居眠りばかりしているが、私は時間潰しに、センセイの本棚にある本を、片っ端から読んでいるだけなので、別に勉強しているわけでもないが、けっこう楽しんで読んでいる。

■"Pretty good. I can read and speak it alright but the trouble is that I can't take notes or write it." All I can do is to keep'em in my head." と答えたのだが、読めたり、しゃべれたりしても、猫はノートをとったり、文を書いたりは出来ないから、頭に入れておくしか手がないのである。まあ「しゃべる」と言っても、センセイ以外は「ニャオ」としか聞き取ってもらえないから、しゃべることにはならないかも知れない。相手のしゃべることは、全部、分かるけれど、それだけでは「対話」にならないから、センセイだけが唯一の対話の相手ということになる。

■それにしても、猫の手は、なぜ、ペンも握れないようになっているのか不思議でしかたがない。なぜ、サルのような手を持っていないのか?サルみたいな手があれば、文字を書くことなど朝メシ前になるのだが、こんな手では「晩メシ前」でもダメである。神様は不公平だ!なぜサルと猫をこうも差別するのか?昔、農繁期になると「猫の手も借りたいほど忙しい」と言っていたというが、「まったく役に立たない猫の手でも借りなければならないほど忙しい」という意味なのだろう。しかし、センセイによると、最近はこういう表現はしないと言う。

■オームや九官鳥などは人間の言葉をしゃべれると言うが、あれはしゃべっているのではなくて、人間の声を、ごく短いセリフなら真似できるというだけで、自分で考えて言葉をしゃべったり、本当の意味で人間と対話が出来るわけではない。人間は、何とかして、動物(人間以外の)に言葉を教えようとして、長い間、チンパンジーやゴリラに、特殊なトレーニングを施しているが、サルが人間の言葉をしゃべりはじめたという話は、今だに聞いたことがない。人間の言葉がある程度理解できるようになるサルや犬はいるらしいが、私のように聞いて理解でき、同時にしゃべれたり、ましてや文字が読めるような動物はいないと思われている。

■猫の私が英語も日本語もちゃんとできることは(もっとも書くことは除外して)、センセイも極秘にしている。誰も信用しないだろうし、もしそんなことをまじめに言おうものなら "He's gone mad." と言われて、気狂いあつかいにされるだろう。だからセンセイはこのことを完全に秘密にしているのだ。もっとも、いくら私と英語でしゃべっても、日本語でしゃべっても、誰もおかしいとは思わない。人間はペットといつも話をしているからである。ペットばかりではなく、牛や馬とも同様にしゃべるのだから、傍目には、何も異常なことには見えない。猫は人間の言葉で「読み・聞き・しゃべりができるのだ」などと「まじめに」言ったりしなければ、OKなのである。

■センセイが私に言うには、日本人は「日本語ほど難しい言語はない」とみんな思っているのだと。外国人にはとうていマスターすることは出来ないと思い込んでいる。だから外国人がカタコトの日本語をしゃべると、手をたたいて、まるで赤ん坊がはじめて「パパ」とか「ママ」言いはじめたときのように「日本語が本当にお上手ですね!」ほめちぎるのだ。しかし、相手の外人は(こういう風にほめられるのは「白人」だけで、チャイニーズやコリアン、タイ国人、フィリピン人などの場合は、ちょっと違うらしい)、自分が文法もデタラメなブロークン・ジャパニーズ(broken Japanese)をしゃべっているのはよく分かっているので、どこかおかしいと思うらしい。日本人がアメリカでブロークン・イングリッシュをしゃべっても、誰もほめてはくれないし、あけすけには言わなくても、内心では「こいつは、ちゃんとした英語もしゃべれない知的水準の低いやつだな」と思われるのがいいところである。

■この点に関しては、わが旧主もうんざりしていた。「あれは我々外人を馬鹿にしている証拠だ」といきまいていたのを思い出す。外人でも、一、二年、日本語を勉強すると、けっこう読めるようになるし、半年も日本に住めば、日常会話なら、かなりできるようになる。先生の古い友人のC氏も、長く日本に住んでいて、上智大学卒だから、日本語は本当に上手い。コロンビア大学のドナルド・キーン先生などは、並の日本人の学者も顔負けの「日本語の大家」で、うちのセンセイなど、ものすごく尊敬している。アメリカ人だろうがイギリス人だろうが、はたまたチャイニーズだろうがコリアンだろうが、日本語の上手い人はかなりいる。まあ私は猫だから、ちょっと別格だが。

■日本語と言うのは全くおもしろい言語で、英語ほど「きまり」がやかましくなく、特に句読点の打ち方(punctuation)には、何もルールなど無いようなもので、プロの作家、物書き、学者、一般人も、みんな好き勝手にやっている。うちのセンセイも、文章らしいもの書きはじめたころは、英語のパンクチュエーションのルールにそって書いていたが、今ではかなり適当にやっているようだ。先生が言うには「文の勢いとか、流れやリズム」を大事にしなければならないから、フレキシブル(flexible)にやればいいのだと。しかし英語の世界では、厳しくルールに従うように、大学院などでは指導していて、論文を書くときは、特に厳しくルールに従うよう学生たちに強制している。新聞・雑誌の記事なども、大体、同じルールに従っている。このルールは American Psychological Association アメリカン・サイコロジカル・アソーシエイション発行の Publication Manual パブリケーション・マニュアルを参照するといい。

■センセイによると、大野晋氏の「日本語の年輪」(新潮文庫)に「隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)」(六世紀頃に書かれた史書)に、倭国(ニッポン)には「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏経を求得し、始めて文字あり」と書かれているらしい。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり. . . 」とはじまる「平家物語」などには、漢語が多く使われていて、大野晋先生によると、「覚一本平家物語」に使われた漢語の種類は、五千語を下らない。現代の総合雑誌に現れる一年間の語彙の総数でさえ約二万種類であるところをみれば、五千という数は、よく考えればかなり多数であるのだそうだ。漢字は沢山あって、先生も読めないものが多くあるから「漢字は苦手だよ」と言う。私も、非常に、苦労しているのである。

■平安中期以降は、漢語が勢力を伸ばしてきて、当時、すでに全体の15〜20パーセントが漢語になっていて、鎌倉時代には約25パーセント、室町時代には約30パーセント、江戸時代には35パーセントになり、日本が大東亜戦争(アメリカ人は the Pacific War と呼びたがるが)で惨敗に帰するまで、漢語はその勢力を拡大し続け、現代では、日本人の使う言葉の45パーセントになっているとセンセイが言っている。

■明治以降になると、漢語ばかりでなくヨーロッパの言葉が、急激に、日本語に侵入してくる。はじめのうちは、西欧の言葉を「漢字」を利用して、新しい漢語を造語していたが、造語しきれない分は、そのままカタカナ読みで表記するようになったのだそうだ。明治19年に出版されたヘボンの和英辞典では、一万語以上の漢語が増補されていると言っているので、馬鹿にできないない数である。これら一万以上の(うちのセンセイも、その総数がどれだけになるのか、まだ調べていないので、よく知らないと言う)漢語は、チャイニーズの中にも入っていき、チャイナや台湾、コリアでも使われているので、日本人は、チャイニーズに対して、この点を「大いに自慢していい」のだとセンセイは言う。

■日本語は、たいへん多くの語彙を持った大言語で、平凡社の「大辞典」には、約72万語が収録されているが、センセイの使っている大きな英和辞典(小学館のランダムハウス英和辞典)でも英語の単語は約40万語収録されているだけだから、日本語はすごい言語なのだ。英語の語彙の85パーセントは「借用語」だと言うけれど、日本語も多くは借用語なのである。英語を起源とする借用語(カタカナ語)だけでも、2万以上あると言われているから、特殊な専門用語を加えるともっとあり、その数も、今後増え続けても減ることは無いだろう。日本語はこのように多くの漢語(元々チャイナから借用したものと新しく日本人が造語したものの両方)と西欧から借用したカタカナ語は、日本語を豊かな言語にすることはあっても、借用語に侵略されて「本来の日本語が消えて無くなりつつあるのでは、決してないのである」とセンセイは声高に主張している。元々の大和言葉の体系は、少しも傷つかないで、過去二千年も生き延びてきたし、これからも、この大和言葉の言語構造(the language structure of 'yamato-kotoba')は、少しも破壊されないで生き延びて行くのだと。